釜石の日常をみつめる ーよろず屋 イマシン「日常の一コマを土偶にしようワークショップ」を通して

2020年3月19日

東 彩織(居間 theater)

◼初めての釜石で

 2020年2月9日~16日にかけて、危機対応研究センター(釜石市・東京大学社会科学研究所)事業「記憶の社会的チカラ −釜石におけるアートと展示イベント−」(以下、「記憶の社会的チカラ」)が、釜石市内各所にて開催された。居間 theaterは本企画の中心人物である法政大学の梅崎修先生からお声かけをいただき、企画の初期段階から関わらせていただいた。われわれは普段、演劇やパフォーミングアーツ、アートプロジェクトなどのアートの分野で作品を制作している。釜石市と社会科学研究所の両者とは初対面という状態で、企画は走り出した。

 また、釜石にも訪れるのは初めてで、下見に2回、そしてイベント直前は滞在制作も含めて約2週間、釜石にお邪魔した。短い期間ではあったが、出会う人はみな気がよく、何かにつけて助けてくれた。釜石は、他所者をおおらかに受け入れる印象がある。滞在期間に知り合った方たちが次々と会場を訪れてくれた。

日常の一コマを土偶にしようワークショップ

 「記憶の社会的チカラ」は、釜石での地域社会調査の成果に関する展示や地域社会と社会的記憶の継承を考えることを目的とし、研究展示・映像作品・まちあるきツアー等で構成された。

 その中で、われわれは「よろず屋 イマシン」と名乗り、釜石市民ホールTETTOのギャラリーにて「日常の一コマを土偶にしようワークショップ」を開催した。よろず屋といってもモノを実際に売るわけではなく、今回の展示イベントの中心テーマである〝記憶〟を扱う、(ニセモノの)よろず屋である。「イマシン」という名前は、かつて釜石にあった商店、いわゆる当時のよろず屋であった 「丸栄及新(まるえいおいしん)」の話を釜石市民ホールTETTOの谷澤館長から伺い、名前の一部を拝借した。

dogu01.jpg
      (イベントの様子)

 なぜ、日常で土偶なのか。それにはもちろん理由がある。

 まず、「日常」であるということ。それはつまり過去でも未来でもなく、「今」について扱うことが重要だった。会場となるTETTOで共に展示をする梅崎先生の「記憶のブリコラージュ」が、釜石のこれまで、すなわち過去の記憶を主に扱う展示となる。それに対して、現在のことを扱うのはどうか、というのがわれわれのひとつのアイディアであった。

 震災から9年を迎えた釜石だが、「復興」と一言で言っても、その捉え方は人それぞれである。われわれは震災を直接現地で体験したわけではなく、釜石を訪れるのも初めてだ。そんな中で、われわれが釜石を訪れてできることは何かと考えると、今その場で直接人に出会い、今のことを扱うことではないかと直感した。釜石とは初対面だからこそ持てる目線もあるはずだ。

 対して、釜石調査のチームは足掛け15年にも渡り継続的に釜石を訪れ、人と会い調査するというその長い時間をかけた方法で釜石と関わってきた。だからこそこれまでの調査研究実績と人間関係の蓄積があり、様々な問題について扱うことができるのだと思う。もちろん、どちらが良い・悪いということではなく、それぞれの立場・距離感から釜石という土地や人にどう触れるかが重要だと考えた。

 そして「土偶」。土偶は、約15,000年前~2,400年前に作られたとされている人の形をした土の焼き物を指すが、縄文研究の中でも、石皿や土器などの生活用具と比較すると明確な用途などははっきりとせず、その造形も多様なため謎が多いとされている。もちろん文字などなく、稲作の開始と社会構造が成立する以前の縄文時代・縄文土偶については、実際のところ想像をするしかないというのが現状のようである。無論、われわれは縄文研究の専門家ではないが、「想像をする」という豊かな姿勢に(一方的に)親近感を覚えた。そして土偶自体に長い時間の蓄積があり、現代のわれわれは土偶という物体を介して過去と対面している。そういう見方で土偶を捉えると何か作品ができるだろうと考えた。

 面白いことに、そしてありがたいことに、「日常の一コマを土偶にしよう」と素っ頓狂なことをわれわれが言っても、出会う人みな興味を持ってくれ、上記のような話をするとよく納得をし面白がってくれた。そういうわけで「よろず屋 イマシン」の「日常の一コマを土偶にしようワークショップ」は始まった。

dogu02.jpg
(会場となった釜石市民ホールTETTO ギャラリーを外から見る)

2種類の土偶

 今回制作された土偶は2種類ある。ひとつは、来訪者であるわれわれ居間 theaterが街や人に出会い、観察したものを形にした「観察者の土偶」。2020年の釜石で、ただそこにある風景・ただそこにあるだけの出来事を拾い集め、テキストを書き土偶という形で記録をした。もうひとつは、釜石の人々が自分の日常の一コマを形にした「人々の土偶」。釜石に暮らす人々や釜石に訪れた人々の、自分の生活のごくわずかな一部や想いを形にした。 観察者の土偶と同様、特別なことではなく、そのとき頭に思いついたこと・考えたこと・願っていること・好きなことなど、その人自身の内にある〝何か〟を土偶にしてもらった。この2種類の土偶はどちらも、とても日常的でささやかなことがもとに作られた、釜石をめぐる「今」についての土偶だ。これらは期間中、TETTOのギャラリーにて展示された。

dogu03.jpg
      (人々の土偶)

 約1週間のワークショップ期間で、「観察者の土偶」が15体、「人々の土偶」が75体、計90体の土偶が誕生した。そのうち、自宅に持って帰りたい方にはお渡しし(要らなくなったらどこかに埋めてもらうよう手紙を添えた)、そのほかの土偶は釜石市内のとある山に埋めた。

 埋めるということはもちろんいつか発掘されることを願ってのことだが、タイムカプセルのように掘り返すことが目的なのではない。何千・何万年後に見知らぬ誰かが発見して、想像力を巡らせてくれたらいいな、という思いはもちろんある。だがそれ以上に、2020年のわれわれが日常的なものを表した土偶を作り、それが釜石のどこかに埋まっているという事実が大切だ。その事実を足場にして、想像力を働かせるということ。すなわち、未来の誰かがこの土偶を見つけることを想像する。その未来の誰かが、土偶を作った人を想像することを、今という地点から想像する。そういった行為それ自体が重要な作品であった。

dogu04.jpg
 (最終的に釜石の山に埋めた土偶たち)

特効薬、ではなく。

 少々話をずらすが、昨今の日本型芸術祭の実績から、アート(特にアートプロジェクト)は地域課題の解決に役立ち、地域社会の活性化を促す効果があると期待され始めてからそれなりに経つ。もちろんそういった側面はある一方で、「アートプロジェクトが社会的課題への特効薬である、と考えるのは早計である」[i]と指摘されていることも事実である。

 「アートプロジェクトは社会的課題に対しての具体的な回答や改善策を提示する可能性を秘めてはいるが、その因果関係を詳らかにできるものではない。あくまで社会の中に新たな文脈を創出し、既存の回路と異なる接続や接触を生み出すことで、これまでの価値観では創出できないような視座や行動力をもたらす「漢方薬」的な存在なのである。」[ii]

とあるように、直接的な問題解決に寄与するとは私は考えない。それどころか、問題というものは本来「解決」されないはずだとすら思う。

 今回、私は危機対応学に「漢方薬」的な側面を少なからず感じた。研究者それぞれが専門分野を持ちつつ多角的な研究テーマを設定し、釜石の危機という「問い」に対して試行錯誤しながら継続的に調査研究しているその様子は、アートとは異なった方法でありながらも、態度としては近しいものがあるのではないか。そこにはやはり、「危機の多層化」[iii]と呼ばれる、複雑に絡み合った釜石の様々な危機(ここでは問題と言い換える)があるからだろう。問題は、大きいものから小さいものまで複雑に絡み合い、相互作用しあう。目の前の問題がひとつ決着したかと思うと、次の問題が発生する。問題は連鎖するし、突発的に起こることもある。

 人体に置き換えてみると分かりやすい。風邪をひいて熱が急に出たとして、解熱剤(発熱に対する特効薬)を飲めば熱は下がる。だが、風邪のウイルスは常に周囲にあるし、疲れて免疫力が下がれば再び風邪をひく。人間が風邪をひかないことはない。だが、日頃から体力をつけたり、体質を改善したりして乗り越えられる風邪もある。「漢方薬」というのはそういうためのものだろう。効いているか効いていないかはすぐには分からない。だが継続して続けていくうちに、良い方向になるかもしれない。漢方だけに頼りすぎるのもよくない。運動や休息をともなって初めて基礎体力は維持されるのだろう。

 このようなことはとにかく継続することが難しいと思う。しかし釜石では、危機対応学という名の下に集まった人々がみなで〝漢方薬的な活動〟を肯定して、多層的・多面的な視座を保ちながら進んでいる。しかもそれを釜石市との密な連携の中で何年にも渡って実践しているのだ。その基礎体力づくりのような地道な活動は、一見するとどこに効いているのか分かりにくかもしれないが、長期的な視野から見ると問題に対して積極的かつ前向きだ。その姿勢自体が重要であると思う。

おわりに、ふたたび土偶

 釜石に滞在しワークショップを行う中で、本当に様々な話を聞いた。昔の釜石の風景、子供のころどんな遊びをしていたか、最近あったこと、自分の子供のこと、将来なりたいもの、お昼ごはんに何を食べたか、しまいには「ギャンブルをする男性だけはやめておけ」という謎の忠告まで。土偶を介してそういった話をする。一時的な時間の中で、その人の生活の背景を想像した。

 しかしながら、釜石に暮らす人々が何を思いながら生活し、移り変わりゆく釜石の風景をどういう気持ちで見てきたのか、その全てに想像を及ばせることは決してできず、土偶というひとつの物体にもそれを表す力は到底ない。ただ出会って会話をし、手を動かして土偶を作ってもらった。そうしてできあがった土偶たちは、とくだん何の役にも立たなそうだ。だが、日々の暮らしや思い出、あるいは願いや祈りなど、明確な形のないものを込めて作られた土偶は、役に立つとか立たないとかではなく〝そういうもの〟として、釜石に埋まっている。

 〝そういうもの〟である土偶は、言うなれば漢方薬ですらないかもしれない。漢方未満、あるいはそれになる前の葉っぱだろうか。

 もしいつか誰かが釜石の土偶を発見した時、今この時の私たちの些細な出来事や想いは、どのように映るだろうか。 もしくは、いつまでも誰もこれらの土偶を発見しなかったとしたら、今この時の私たちの些細な出来事や想いは、ただ消えゆくだけだろうか。あるいは、いつか無数の記憶の集積になりうるだろうか。......やはり今は、その謎の土偶が埋まっているという事実のみがある。

 だがそういうものも、きっとあって良い。

dogu05.jpg
      (観察者の土偶)

 最後に、研究とは異なった立場にも関わらず今回の企画にお声がけをいただき、またこのようなエッセイを書く機会を提供してくださった社会科学研究所のみなさまに、改めて御礼を申し上げたい。


[i] 熊倉純子 監修(2014)『アートプロジェクト―芸術と共創する社会』,水曜社

[ii] 同上

[iii] 東大社研・中村尚史・玄田有史編(2020)『地域の危機・釜石の対応』,東京大学出版会

* ****

居間 theater[東彩織・稲継美保・宮武亜季・山崎朋]

2013年から東京谷中にある最小文化複合施設「HAGISO」を拠点に活動をスタート。音楽家や美術家、建築家など分野の異なる専門家との共同制作のほか、カフェ、ホテル、区役所など、既存の "場" とそこにある "ふるまい" をもとに作品創作をおこなう。
現実にある状況とパフォーマンスやフィクションを掛け合わせることで、誰でも参加可能でありながら、現実を異化させるような独特の体験型作品をつくり上げる。
これまでに、通常営業するカフェでコーヒーと同じようにパフォーマンスを注文できる「パフォーマンスカフェ」(2013〜/HAGISOほか)、区役所の一角にアートを推進する架空の窓口を開設した「パフォーマンス窓口」(2015・2016/豊島区 としまアートステーション構想)、都市生活の中で体験できる会期無期限の芸術祭「空想型芸術祭 Fiction」(2017〜/台東区・墨田区 隅田川 森羅万象 墨に夢)など。
imatheater.com