『危機対応学―明日の災害に備えるために』を読んで――信頼(周辺)研究からのコメント

2019年3月20日

大﨑 裕子

 東京大学社会科学研究所の危機対応学プロジェクトの成果本として刊行された『危機対応学―明日の災害に備えるために』の合評会が2018年12月18日に同研究所で行われ、筆者は討論者としてコメントする機会をいただいた。本稿は、そのコメント内容をまとめたものである。
 今回、『危機対応学』に対し、筆者の専門である信頼(周辺)研究の立場からコメントさせていただいた。コメントの立ち位置を明確にするため、筆者の専門について少しだけ紹介しておきたい。筆者はこれまで、主にソーシャル・キャピタル論の枠組みにおいて「人々が他者一般や社会に対していだく信頼」を中心とした研究をすすめてきた。信頼感の規定要因や帰結の解明の過程では、社会的ネットワーク、政策・行政サービスなど公的制度のあり方、不平等の問題などを扱うため、個人(市民)、地域社会、公的制度の3者の関係について考える機会も多い。さらに、信頼研究は近代化(特に近代化による自律的選択や市民的価値の成熟)とも関連が深い。このような信頼(周辺)研究の視点から、以下、『危機対応学』を読んで感じた疑問および筆者なりの理解についてコメントする。なおコメントはあくまでも筆者の特定関心に沿ったものであり、なかには、各章の執筆者が発したメッセージの主要部分ではない内容に着目したコメントもあることを、あらかじめ断っておく。

1 本書を読むうえでの疑問 Reading Question

災害は、どのような点で「危機」なのか。

 これは、『危機対応学』の序章を読み始めて最初に浮かんだ疑問である。危機対応の「対応」の意味は比較的明快である。一方で、「危機」の定義は自明だろうか。同書の序章では、「自然災害としての危機」という記述があるように、自然災害は危機の要素と位置付けられている。また、同じく序章において、「危機」の一般的定義は、「社会、組織、集団、個人等の存立基盤が崩壊する可能性のある事態」とされている。しかし、読み進めるにつれ、

  1. 「災害=「危機」の下位要素」に対し、具体的定義は与えられないのだろうか。
  2. 災害時の個別具体的状況で、どういった点が「危機」的なのか。「災害」をとりあげると宣言した後なお、各章で「危機」を用いる意義があるのか。

という疑問が浮かんだ。2章以降、災害時における様々な「危機」について議論が展開されるが、その前に、こうした定義を固めておく必要はないのだろうか、という点がとても気になった。
 しかしさらに読み進めると、その疑問に対するヒントを見つけることができた。やはり序章に、「危機とはいったい何なのか、~(略)~ 、想定すること自体が困難となっているのが、現代日本社会の特徴なのかもしれない」という記述がある。ここから筆者は、『危機対応学』における「危機」の定義に対するスタンスのようなものを次のようによみとった。同書では「危機」を明確に定義せず、「危機時になにが問題となるのか」自体を解明すべき対象と位置付けているのではないか。むしろ全体を読み終えたとき、危機(あるいは危機としての災害)を定義づけるような特徴がみえてくるのではないか。

2 各章の横断的理解

 以上のような疑問と期待への答えを探すことを目的として、『危機対応学』の2章以降を読み進めた。各章では、社会調査データをもとに、災害時のさまざまな場面における「危機」に関する知見がまとめられている。それらを横断的に理解することで、「危機としての災害」の特徴について以下のような検討をおこなった。

(1)災害の時点間での価値矛盾、不安定性

 『危機対応学』のいくつかの章では、災害という危機の「事前と事後」に着目した議論がなされている。これらに対し、以下では、近代化論における価値変容の議論を参考に、「災害時点間での価値の違い」について検討を試みることにしたい。
 近代化と価値変化の関係を論じたInglehartとWelzel1の価値変化論によれば、社会の発展段階を考えるとき、一定の物質的・経済的水準を達成し、存在的安心を充足した社会では、自律性選択や他者や社会への配慮(市民的価値)が重視されるという。これを参考にすると、「災害時」とはどのような社会状況であるといえるだろうか。災害時とは、物質的・経済的に困窮し、存在的安心が低下する状況であるといえるだろう。したがって災害時は、下の図(筆者作成)のように、平時に比べて自律的選択の価値や市民的価値が減退すると考えられる。

 このような「災害時と平時での価値の不一致」を念頭に、『危機対応学』で議論される様々な災害状況の「事前と事後」について検討してみよう。

災害時点間の不一致① 人間関係構築に関する価値

 6章「孤立と信頼」(石田論文)では、災害時における支援の難しさが議論されている。具体的には、災害地域の外部から被災地にやってくる人々の支援が効果的に被災者に利用されるためには、被災者がそのような外部からの支援を信頼できることが必要であるのだが、そのような「受援力」を被災者がもつためには、普段から地域で孤立せず、身近な地域内人間関係に参加する必要があるという。
 この点について筆者は、災害時に必要とされる人間関係が、次のように平時と異なることを指摘したい。平時、すなわち地域の外部からの支援を必要としない状況であれば、地域での孤立は特段問題にならないため、地域内に人間関係を構築する必要はなく、人間関係は自由に選択できる(例えば、地域外の人とばかり付き合っても問題ない)。一方、石田論文で述べられたように、災害時はスムーズに支援を受けるため、地域で孤立してはならず、普段から身近な人間関係を構築しておかなければならない。したがって、人間関係を自由に選択することはできない。このように、人間関係の選択という点において、平時の価値(自律的な選択)は、災害対応という文脈においては重視されない。

災害時点間の不一致② 地域への愛着の価値

 5章「居住と愛着」(鈴木論文)では、災害前、災害当時、災害後の各時点において、居住地域に対する「愛着」のもつ意味が異なることが次のように論じられている。災害前は、将来の災害に備えるべく地域が変化することに寛容であることがもとめられるため、地域への愛着はこれを阻害する要因となる。また、災害の発生当時においても、適切な危険察知や避難行動を行うにあたり、地域への愛着は阻害要因となる。一方で災害後の復興時には、地域に活気を取り戻し、コミュニティを発展させていくうえで、愛着は促進要因となる。
 鈴木論文において指摘されたこれらのことは、地域に対する愛着の価値が、災害をめぐる各時点間において不安定であり、両義的であることを意味している。

災害時点間の不一致③ 他者配慮と配分に関する価値

 3章「危機に対し家族は」(苫米地論文)では、災害に対する家庭での事前対策が特に子育て世代で脆弱であることが示され、災害の「事前」状況において、必要性の高い弱者への配慮が重視されることが論じられている。
 一方、7章「限られた物資をどう配るか?」(有田論文)では、実際に災害が発生した現場(例えば避難所)で物資の配分を決定する際には、必要対象に配慮すべきという価値は必ずしも実践されず、自己利益を正当化したり(ホンネの表れ)、判断を保留(平等に抽選することを支持)する人が多いことが示されている。
 これらの二つの知見は、災害に対峙していない事前状況で重視される弱者配慮というタテマエ(=市民的価値)が、現実に災害に対峙して余裕がない状況においては受容されないという矛盾を意味している。

(2)災害時、なにに頼るべきなのか

 『危機対応学』において「災害がどのような点において危機なのか」を考えるうえで重要なもう一つの論点は、「災害時、なにに頼るべきなのか」という問題である。

国・行政への期待と必要な役割

 国や行政は本来、災害時に国民が頼る存在である。ところが実際は、国や行政を頼れる存在と考えている日本人は多くないことが『危機対応学』において指摘されている。平時も災害時も国民は国を信頼しておらず(6章「孤立と信頼」石田論文)、また災害への対応としては公助よりも自助を重視すべきであると考える人が増えている(4章「防災対策が「わからない」」飯田論文)という。
 その一方で、『危機対応学』は災害時に国や行政が果たすべき役割についても指摘している。上記の飯田論文は、自らすすんで災害に備える余裕のない人たちの存在を構造的問題として指摘し、公助の重要性の大きさを主張している。また7章「限られた物資をどう配るか?」(有田論文)でも、災害時の差し迫った局面においては行政主導の決定が必要になることが指摘されている。
 これらの知見を総合すると、災害時やその備えのために国および行政が本来果たすべき役割は大きいにもかかわらず、公助に対する国民の信頼や期待は低いという矛盾が浮かび上がる。

災害に対する心構えとしての計算と非計算

 「災害時になにに頼るべきか」を議論する上で、2章「「危機意識」の背景と状況」(藤原論文)で検討された、災害に対する心構えの問題も重要である。大地震の発生を事例として検討した藤原論文によれば、危機意識は社会構造によって説明されにくく、また客観的確率の主観的評価も個人差が大きい。そのため、特定層へのアプローチや確率的な情報提供の有用性には限界があるという。
 こうした知見は、災害時における「公助の限界」の一側面を鋭く指摘しているように筆者には感じられた。近年の日本社会にひろがる「自助重視」(≒自己責任論)の傾向は、今後の災害対応における現実的な方策と捉えるべきなのだろうか。この問いは、災害を対象とした危機対応学が解くべき最も重要かつ難しい問題の一つであろう。
 しかしながら、『危機対応学』ではこの問題に対する一つのヒントが示されている。1章「自信がない・準備もない」(玄田論文)で論じられた「即応力にもとづくブリコラージュ的対応」である。これは、「計算に頼らないタイプの心構え」と言い換えられるかもしれない。危機あるいはリスクに対する計算とそれを根拠とした対応策の精度を上げていくことは、少なくとも国や行政にもとめられる災害対応として今後も重要であることは間違いない。しかしそれのみに頼ることの限界も『危機対応学』で明らかにされた重要な知見である。「ブリコラージュ的対応」が、「公助の限界」をいかに補完することができるか。この問いについては、今後の展開を期待したい。

3 再び、Reading Question「災害は、どのような点で「危機」なのか?」について

 以上の検討を経て、筆者としては、「危機としての災害」の特徴を以下のように理解した。

・選択できるオプションが少ない。ベストな選択をする余裕がない。
・災害前の価値が必ずしも災害時に通用しない(当たり前が当たり前でなくなる)。
・災害前に成立していたタテマエは災害時に成立しない。
・公助は本来重要である。しかし現実の国民の期待レベルがそれに見合っていない。
・将来の災害発生に対する心構えには、計算的なものと非計算的なものがあり得る。

 これらの特徴から、冒頭であげた問い「災害は、どのような点で「危機」なのか」に対するひとまずの答えを筆者なりに得た気がする。が、当然のことながら明確な定義には遠く及ばない。
 東京大学社会科学研究所の「危機対応学」プロジェクトでは今後、災害以外の様々な「危機」に関する研究の成果についても、複数の書籍にまとめていく予定があると聞いた。その過程で、社会における様々な「危機のすがた」が描き出され、「危機」の普遍的な定義が次第に明らかにされるだろう。そうなったとき、「災害は、どのような点で「危機」なのか」に対する筆者の理解もまた、現在より深まるものと期待している。

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1Inglehart, R. and C. Welzel. 2005. Modernization, Cultural Change, and Democracy: The Human Development Sequence. New York: Cambridge University Press.