アマチュア登山家の危機対応学

2018年8月30日

 大阪で暮らしていた中学2年の時に、親友二人と六甲山に出かけ、飯盒で飯を炊いて野宿したのが私のアマチュア登山家としての経歴のスタートだった。思春期の男子はいわれのない衝動に駆られてとんでもない悪さをする。悪たれ坊主三人にとって、川に一抱えもある石を次々放り込んだり、河原でたき火をしたりするのが無性に楽しかった。飯盒で炊いた飯は黒焦げで芯があったが、育ち盛りの胃袋にはそれも栄養だった。 これに味をしめて、近場の六甲山や生駒山系をフィールドに、泊りがけで野山遊びを楽しむようになった。「天文少年」だったので、アルバイトのお金を貯めてようやく買い求めた自慢の望遠鏡を自転車の荷台に積み、生駒山系の室池(むろいけ)に泊りがけで仲間と天体観測に行ったこともある。車の多い帰り道で、望遠鏡の大きな箱を荷台に積んだ自転車でバスと競走してついに追い抜かせなかった自慢話を友達に話したら、そいつが生活指導の先生に告げ口をした。放課後に校内放送で呼び出され、今回の事件の首謀者と見られた私は往復びんたを食らった。何度責められても同行した仲間の名前を白状しなかったので、もう二三発びんたを食らったのが、私にとっての登山にまつわる最初の「危機」対応だった。


 大阪の公立高校を卒業し、同級生の多くが京大や阪大を目指す中で、敢えて東大の文一を受験したのは、一つには国家公務員になりたいと思ったからだが、隠れた理由は東京からは北アルプスが近いからだった。入学してすぐに東大法学部山の会に入会した。新人歓迎山行で登った八ヶ岳で、レストの間もザックを下ろさずに平気で歩き回っていたら、「とんでもない新人が入った」と先輩の間で話題になった。1年の夏合宿は北アルプス全山縦走だった。40kgを越えるキスリングザックを担いで後立山の五竜岳に登り、五竜岳から八峰キレットを経て鹿島槍、燕岳、大天井岳を経て1週間がかりの縦走で槍ヶ岳に登った。頂上から眺めたキレットから穂高連峰に続く急峻な稜線は、一般ルートながら鎖場と崩れやすい岩稜の続く難所である。合宿後半で荷が軽くなっていたこともあって、翌日からの穂高への縦走が楽しみだった。しかし、その晩に発熱してしまい、先輩の付添いで槍沢から途中下山することになってしまったのは残念なことだった。この山行で登山への情熱に火が付いた。学部生の間は毎年40日から60日は山に入った。大学院に進学し、OBになってからも、東大に在学しているという理由で準現役と認めてもらい、多くの山行にリーダー格で参加した。


 私が最初に体験した本当の山での危機は、修士1年目の終わりに近い1980年3月の春合宿だった。新人の夏合宿で登って以来、大好きになった後立山の縦走をリーダーとして企画した。扇沢から入山し、鹿島槍から八峰キレットを経て五竜岳に抜ける行程である。春とはいえ積雪は3メートルを越える。入山者は少なく、深雪のラッセルを2日続けて鹿島槍に続く稜線に出たのは合宿3日目のことだった。その日の行程は岩と氷雪に所々這い松が顔を覗かせる稜線を辿って鹿島槍山荘までの約4時間。翌日は切り立った氷雪交じりの岩稜になっている八峰キレットを通過して五竜岳に至る、危険で長大な行程だったので、前日は体力を温存するため比較的軽い行程を組んでいた。

 幕営地を早朝に出発して2ピッチ目に天候が急変し、雪が降り出した。3ピッチ目の途中からは吹雪になった。幕営予定地の鹿島槍手前の冷池山荘まで1ピッチ足らずのところで、トップを務めていた後輩が、吹雪で視界が効かず、前進できなくなった。誤って雪庇を踏み抜けば数百メートルは滑落する。ヘルメットは装着していたものの、途中で岩にぶつかればお陀仏である。残雪が減る初夏までは遺体も見つからないだろう。リーダーの私はパーティーの最後尾を歩いていたが、トップと交替して慎重に前進した。風が幾分穏やかな稜線上のくぼ地を見つけ、ビバークを決めたのはお昼前だった。30分ほどかけて雪を踏み固めて2張のテントを立て、8人パーティーはようやくほっと一息ついた。短波放送で受信した午後3時の気象通報によれば、冬型の気圧配置は2日は続く見込みだった。暖房兼調理用のガソリンストーブの燃料は十分な量を携行していた。予備の食糧で食いつないで2日ビバークすれば天候も収まるだろう。そうすれば、他に入山者もいない新雪の稜線を五竜まで快適に縦走できる。ほっとした一行は、行動食のチョコレートやクッキーをかじりながら小銭を賭けてトランプの大貧民に興じ、夕食の後は先輩差入れのウィスキーに雪を入れたコップを回し呑みして恒例の山の歌を歌い、就寝した。風雪は一向に収まる気配がなく、胡坐をかいて車座でトランプに興じていると、30分も経たないうちにテントに積もった新雪に背中を押された。その度に交替でテントの外に出て、スコップで雪かきをした。就寝前には30分おきに起き出して雪かきする当番を決めて寝た。


 夜中に呼吸が苦しくて目が覚めた。息が荒く、心臓が早鐘を打っている。心臓麻痺かと思い、隣で寝ている後輩に異変を知らせようとした。ところが、身動きができない。積もった雪でテントが押しつぶされ、シュラフのすぐ上にまでかぶさっていた。もう死ぬかもしれないと焦ったが、ここが肝心と思い直し、必死で息を整えた。ふと気がつけば、両隣で寝ている後輩達も荒い息遣いだった。テントが雪で押しつぶされ、内部が酸欠状態になっていることが分かった。とっさに「起きろー! 雪でテントが埋まった-!」と絶叫して皆を起こした。わずかに動く手や足で出口付近の雪を掻き出し、ようやく全員がテントから脱出するまで、どのくらいかかっただろうか。ヘッドランプで照らして見ると、テントの上の積雪は2メートルを越えていた。4人用テントに5トン近い雪が積もっていたことになる。目覚めるのがあと5分遅ければ全員が窒息死するか圧死していたと気付き、ぞっとした。


 この山行のリーダーとして、私はいくつもの重大なミスを犯した。第一のミスは吹雪が始まった時である。悪天候が続くことが予想された以上、直ちに引き返して安全なビバーク地点を探すべきだった。ビバーク地点の半ピッチほど手前に這い松交じりの窪みがあったことは覚えていたが、吹雪で前方の視界が聞かない中、切り立った稜線を引き返すのはかえって危ないと判断した。さらに前進し、風を避けて2張のテントがかろうじて張れる場所をビバーク地に選んだ。これがなぜミスだったのか?

 風が避けられるということは、そこが吹き溜まりになるということに思いが至らなかった。いや、トランプをしている背中が雪で押されるようになったので、そこが吹き溜まりだということにはすぐに分かった。だからこそ、30分おきに雪かきする当番を決めて就寝したのである。

 正しい判断は、吹雪が始まってすぐに撤退を決め、まだ視界が効き、雪も降り積もらないうちに半ピッチ引き返して安全な場所にビバークすることだった。あと1ピッチ進めば予定の幕営地である冷池山荘に着く。とはいえ、前方の視界が効かない稜線上を前進すれば雪庇を踏み抜いて滑落する可能性があったので、それはあり得ない選択だった。私はトップを交替して慎重に前進し、風の穏やかな場所を見つけてそこにビバークすると決めたが、その際、無意識のうちに、その日の幕営予定地であった安全な場所から遠ざかることへの恐怖を感じていたのかもしれない。


 第二のミスは、2日間の深雪のラッセルでようやく稜線に出た翌日に、吹雪の稜線上でビバークする羽目に陥った結果、パーティーが心身ともに消耗していたことに思いが至らなかったことである。起きられず、雪かきができなかった当番は新人だった。体力、雪山技術ともに申し分ないと判断して春合宿への参加を認めたのは私だったが、パーティーが同じ危機的状況に見舞われている中で、彼がリーダーの私や他の上級生に比べてはるかに消耗していたことに思いが至らなかった。 正しくは、リーダーの私や上級生を中心に雪かきのローテーションを組み、彼を含めた新人2名はゆっくり眠らせるべきだった。当の本人は、自分のせいでパーティーが窒息死・圧死しかけたショックで落ち込んでいたが、本当の責任は判断を誤ったリーダーの私が負うべきものだった。


 第三のミスはパーティーの人選にあった。春の後立山は、いったん悪天候に見舞われれば厳冬期の状態に戻ってしまうことは春山の常識としてわきまえていた。だからこそ、体力、冬山技術ともに申し分ない部員をメンバーに選んだつもりだった。寝過ごした新人は同期の中で抜群の体力と技術を持っていた。入会以来ほぼ1年の間に60日、10回以上の山行に参加した経験もあった。しかし、今回ほどの悪天候に見舞われた経験はなく、その意味では未熟だった。

 なぜ彼をメンバーに加えたのか? 4月になればリーダー学年の3年生は進級と同時に引退し、就職活動や国家試験の準備に専念する。春合宿の目的の一つは有望な新人をリーダーとして養成することだった。1年後のリーダー候補として彼を抜擢したのはリーダーの私である。その判断自体は間違っていなかったことは、1年後に彼がリーダーに選ばれ、立派に務め上げたことで証明されている。

 どのような組織であれ、OJTを通じて新人に経験を積ませ、次第に困難なタスクを課していく中で将来のリーダーを選抜し養成するのは人事管理の常道である。東大法学部山の会もそうやって新人の育成を行ってきたし、私を含めた歴代のリーダーもそのように育てられた。その意味で、彼をメンバーに加えた私の判断は、それ自体としては間違っていなかったかもしれない。しかし、彼を含めたパーティー全体の経験と体力、技量では対応できないかもしれない今回のような危機的状況は想定していなかった。その点にリーダーとしての私の甘さがあった。なぜか?

 先に書いたように、私は新人として参加した夏合宿で鹿島槍や五竜岳を含む後立山を縦走し、この山系に強く惹き付けられた。人は同じ北アルプスで最も人気の高い槍穂高を「表銀座」と呼ぶが、後立山は「裏銀座」と並び称せられ、入山者こそはるかに少ないが、槍穂高にも劣らない登山者の憧れの対象である。私はそれまでに何度もそこに足を運んだ。急峻な岩稜を時には鎖やザイルの助けを借りながら通過する爽快な夏山、秋の紅葉、春山の雪と岩の静寂、そして季節を問わず神々しいまでの朝焼けと夕焼け。後立山は私を魅了し続け、私はその魅力を繰り返し仲間と語り合った。新人の中から将来のリーダー候補として白羽の矢を立てた彼にも、春の後立山の魅力を体験させたいという強い思いが私にあり、彼もそれに応えて喜び勇んで山行に参加したのだった。


 山の会に入会して6年(大学院入試に失敗して留年し、私は5年かけて法学部を卒業した)、通算300日以上を山で過ごした私は、これほどではないにせよ、一つ間違えば命を落としていただろう危険な目に何度も遭っていた。日本の近代登山草創期に「伝説の単独行者」と呼ばれた加藤文太郎が、風雪中の登攀で低体温症のため命を落とした槍ヶ岳北鎌尾根を夏に登った時は、三俣山荘から赤沢を経て尾根の取っ付きまで下る伊藤新道が予想以上に荒れており、固定された金属ロープの上をこれも固定されたナイロンロープ2本を頼りに渡る危険な渡渉を何度も繰り返し、心身ともに消耗した。残雪期の飯豊山系の縦走でパーティーのトップを務めていて、アイゼンを付けていなかったために固い残雪で足を滑らせて20mほど滑落したこともあった。いずれも、一つ間違えれば死亡事故につながっていただろう。

 東大法学部山の会は、昭和30(1955)年に、「法学部砂漠」と呼ばれた詰め込み教育とがり勉の学生生活に物足りない法学部の有志が学部の自治会(緑会)で呼びかけて設立された。それ以来、無雪期の縦走と夏の沢登り、残雪期の山行を中心に活動してきた。格段の体力と技量が求められる岩登りや厳冬期の山行には手を出さないアマチュア大学サークルであるが、それでもこれまでに3件の遭難死亡事故を起こしている。夏の南ア北岳池山鈎尾根での転落死亡事故、6月の朝日岳大鳥川渡渉中の溺死事故、残雪期の富士山での滑落死亡事故の3件である。幸い私が現役でいた間に事故はなかった。しかし、過去の事故で命を落とした先輩の家族の嘆きについては、先輩から繰り返し聞かされてきた。

 標高数百メートルの夏の低山でも、急な雨にたたられて凍死する登山者が出ることがある。まして、3月の後立山の縦走となればその危険度は計り知れない。万一に備えて、入念に計画を練り、パーティーを選び、訓練し、装備・食糧も十分に用意する。万一事故が起きた時の緊急連絡先と救援のための部員も配置し、山岳保険にも加入する。以上は登山の常識であり、今回の山行でも準備にミスはなかったと思う。入山に当たって、登山口に置かれた長野県警のボックスに詳細な山行計画書とメンバーリストを提出した。今回も装備・食糧の十分な備えがあったので、ビバークを決めた時も不安は感じなかった。それでも、パーティー全員遭難が一歩手前の状態に陥ったのは、リーダーの私の危機対応に複数のミスが重なったためである。


 他方で、この山行で遭難者を出さず、ビバークの後に鹿島槍ヶ岳、五竜岳を経て無事下山できたことを考えれば、「吹雪によるフォーストビバーク」という危機を乗り切ることができたと言えるかもしれない。それは、入念な計画と適切なパーティーの人選と訓練、十分な装備・食糧といった準備段階に手落ちがなかったことによるところが大きい。それに加えて、実際に危機的状況に陥ってからの私の対応が、上記のいくつかのミスにもかかわらず、いずれも致命的なミスにはつながるものではなかったことによる。吹雪に見舞われてトップが前進できなくなったときに、トップを交替して慎重に進み、ビバーク地を見つけられたこと、ビバークしたテントで気象通報を聞き、2日すれば吹雪も収まると判断したこと、ビバーク地が吹き溜まりと分かってから、就寝前に交替で起き出して雪かきする当番を決めたこと、これらはいずれも山行のリーダーを務めた私が下した判断であり、それらは当面の危機に対する対応としてはそれなりに合理的なものであったと思う。


 危機に直面した場合にリーダーが下す判断は、危機対応において決定的に重要である。この体験から私が学んだリーダーの危機対応の要諦は3つある。第一に、今、自分の置かれた状況が危機であることを認識すること。吹雪でトップが前進できなくなったとしても、それを危機と認識せず、そのまま前進していればさらに重大な危機(トップの滑落)を招いたかもしれない。第二に、危機を認識したら、得られる限りの情報と情勢を踏まえて最善と判断する対応をとること。トップを交替して前進し、風の弱い場所を見つけてビバーク地と決めたこと、気象通報に基づいてビバークの期間を決めたこと、就寝前に雪かきの当番を決めたこと、危機の経過の中で私が下したこれらの判断は、結果として遭難というさらに重大な危機を回避したという意味で、適切であったと思う。第三に、以上の前提として、危機対応においてリーダーが冷静で合理的な判断を下す精神的・体力的な余裕を保ち続けること。以上は、危機対応の要諦というのもおこがましい「常識」に属することかもしれない。しかし、これらを実際の危機対応で実践できたことは私にとってとても良い、また幸運な体験であったと思う。


 鹿島槍ヶ岳の山行から40年近く経つ。今でも昔の山仲間と会えばあの時の話が出て盛り上がる。私は今でも登山を続けている。来年あたり、久しぶりに後立山に足を伸ばしてみようかと思う。


(2018年9月穂高岳)