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研究

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丸川知雄 『戦争の危機と重要施設の移転――日中の比較史』
(『国境を越える危機・外交と制度による対応――アジア太平洋と中東, 2019年10月)

2019.10.23更新

概要

戦争の危機と重要施設の移転

埼玉県吉見町で大戦末期に作られた中島飛行機大宮製作所の地下工場

 アジア太平洋戦争末期の日本は「本土決戦」を決意し、そのための態勢を整え始めた。1960年代の中国は実際に戦争をしていたわけではないが、戦争によって国土の大きな部分を失うような危機を予期し、それでも長期にわたって戦争が続けられるような態勢を築こうとした。日中のいずれにおいても、国土の重要な部分を失っても戦争が継続できる態勢を作るために重要施設の移転が行われた。

 本論文は、日本と中国がともに戦争の危機に直面して重要施設の移転に着手したという点に着目し、両者の共通性と相違を指摘した。日本で長野県などに軍需工場が移転し始めたのは、アメリカの空襲が現実のものとなった1942年以降である。B29が頻繁に襲来するようになった1944年11月からおびただしい地下施設が掘られたが、その大半は使われずに終戦を迎えた。一方、中国では実際には戦争に巻き込まれていないのに、内陸の山間部に2000もの工場が作られた。建設に時間がかかったため、ベトナム戦争で北ベトナムを支援することを目的で作られた兵器工場が、実際には中越戦争でベトナムと戦うための兵器を作ることになった。

 日本の重要施設移転は、「国体」を護持するためには一般国民が犠牲になってもいいという国家観を体現していた。中国の重要施設移転は国土と国民が3分の1になっても国家体制を存続させるために行われた。

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