第9章 加藤晋「陰鬱な危機対応―現在と未来のトレードオフ」
(書評:宇佐美誠)
理論と現実のあいだ
宇佐美 誠
京都大学大学院地球環境学堂教授
これほど時宜に適った学術書の公刊は稀ではないだろうか。2020年3月末が近づく現在、新型コロナウイルスの急性呼吸器疾患により日増しに悪化する各国の状況を、我々は固唾を飲んで見守っている。中国の一都市に端を発した肺炎が、わずか数か月後に、世界180か国以上で57万人を超える感染者を生み、2万6千もの人命を奪うなどと、誰が想像しえただろうか。世界規模で進行中の危機のなか、危機対応を学際的に考究した『危機対応の社会科学 上・下』を私は読み進めている。
下巻に収録された加藤晋論文は、期待効用理論における陰鬱な定理の理論的検討を行っている。初めに、サンクトペテルブルクのパラドックスという古典的逆理が確認される。これは、ある形態の賭け事では、賞金の期待値が無限大となるが、費用を問わずこれに参加するのは直観的に不合理だという逆理である。次に、近年に発見された陰鬱な定理が紹介される。この定理によれば、リスクが正規分布よりも裾野の広いファットテイル分布に従うとき、期待効用理論からは、無限の費用を払ってでもリスクを回避するのが合理的だという反直観的結論が導かれてしまう。サンクトペテルブルクのパラドックスと陰鬱な定理は相同的構造をもつが、前者が事実解明的であるのに対して後者は規範的であるから、行動経済学が明らかにしてきた人間の非合理性をもって、陰鬱な定理を避けることはできないと指摘される。最後に、この定理が示すのは、経済合理性以外の価値の重要性、ひいては倫理の重要性だと示唆している。
本論文は、数式が多用され非専門家には敷居が高い期待効用理論における2つの逆理を、極めて平明に解説しており、幅広い読者にその意義を伝えることに成功している。また、両逆理の相同性にもかかわらず、事実解明的か規範的かという異同を剔抉している。さらに、経済合理性以外の価値やそれをめぐる倫理がもつ重要な関連性の指摘にも頷かされる。
その上で、2つの点を指摘したい。第1に、気候変動の文脈で発見された陰鬱な定理に、当該の文脈から離れて一般的検討を加えることには大きな理論的意義があるが、同時に、リスクが現実化した場合に生じる影響の種類・規模は具体的問題ごとに異なるという点にも留意する必要がある。リスクが現実となるならば、人命が失われるか否か、他のいかなる種類の利益が損なわれるか、被害者の人数はどうか、損害の範囲は一地域内か一国内か地球規模か、影響は現在世代にとどまるか将来世代にも及ぶかなどは、陰鬱な定理を規範的に評価する際に無視できない。そうだとすれば、本論文の結論の先に、この定理が妥当しうる諸問題の評価軸の設定という倫理学的課題が立ち現れるだろう。
第2に、上記の点とも関連するが、経済合理性以外にいかなる価値が重要となるかも、部分的には問題の性格に依存する。生命権や他の基底権、他国への配慮義務、将来世代への責務などの多様な価値や理念が、リスクが現れる問題次第で関係しうる。こうした現実問題と一般理論を接続する際にも、本論文での考察は有用な示唆を与えてくれるだろう。