第7章 大沢真理「『国難』を深めたアベノミクスの6年―逆機能する税・社会保障」
(書評:武田宏子)
武田宏子
名古屋大学大学院法学研究科教授
「危機」は危険で悪い状況に陥る可能性が高い例外的な事態を指すことばであり、したがって、そもそも何を「危険」であり、「悪い状況」とみなすかという点において、高度に政治的な性質を帯びている。だからこそ、ステュアート・ホールやコリン・ヘイが議論したように、危機を語るナラティブの構築は、特定の政治状況を現出させ、正当化するという政治行為の本質的要素を成してきた(Hall 1988; Hay 1999)。特に、近年のポピュリズム研究は、ポピュリズム政治と危機を語るナラティブが分かちがたく結びついていると議論している。例えば、ベンジャミン・モフィットによれば、「危機のパフォーマンスはポピュリズムそれ自体の本質的で、中核的な特徴としてみなされるべきである」(Moffitt 2015: 210-211)。
安倍自民党政権は、そうした危機のパフォーマンスを繰り返してきた。北朝鮮のミサイルや少子化といった問題が日本という国にとっての「危機」として名指しされ、政府による対応が必要なことが強く主張される一方で、自民党政権が長期にわたって存在してきたにもかかわらず、どうしてそれらが危機的な問題として現在、認識されるべきであり、なぜ政府によって示された対応の仕方が正当化されるのかという点に関しては触れられない。前出の論文で、ヘイは、政治的アクターが「危機」をどのように構造的矛盾/失敗に結びつけるか検討することで、危機ナラティブを動員する政治的行為の意図と目的を探ることができると指摘しているが(Hay 1999: 226-233)、安倍政権の語り口(あるいは「語らない口」)から、北朝鮮/少子化問題と現自民党政権を切り離し、その上で自らを問題解決者として有権者に押し付けようとする言説戦略を特定することは難しいことではない。
こうした安倍政権の政治的なふるまい方に対して、大沢論文は丁寧かつ緻密に社会保障と税に関するデータを使って現状を検証していくことで、真正面から対抗し、その「危機のナラティブ」が内包する問題を露呈させていく。まず、本論文の二節でそもそも日本の社会保障制度が共稼ぎ世帯、就業するひとり親世帯および就業する単身者世帯に対して「逆機能」していたことを示し、その上で、三節と四節では、安倍政権が成立して以来の制度改革によって、社会保障の「重点化・効率化」という方針のもと社会支出の対GDP比が低下した一方で、税収に関しては、再分配機能が回復されないまま、法人に対する減税が進められていった事実をデータに基づいて提示する。こうした作業をした後で、五節において議論されるのは、国際比較を通じて明らかにされる日本の再分配制度が構造的に再生産する経済的およびジェンダー不平等である。低所得者層ほど純負担率が高くなる現行制度は、「低所得者層を冷遇し」、「共稼ぎやシングルマザーに比して専業主婦家庭を優遇する」(188頁)。けれども、「安倍政権はそこに基本的にメスを入れていない」。したがって、大沢は「子どもを生み育て世帯として目いっぱい(つまり女性が)働くことへの『罰』は、アベノミクスにより強まったと考えざるをえない。これでは少子高齢化という『国難』も深まるしかない」(188頁)と結論する。
こうした大沢の議論から見えてくるのは、安倍政権の「危機のナラティブ」は有権者の目を本質的問題から逸らせることを目的とした典型的な「死んだ猫戦略」(dead cat strategy)[1]であるということであり、さらに、そうした政治過程にあって貧困対策など、生まれてきた子どもが健やかに成長していくための政策が遅々として進まない現状である。レトリックが先行する政治に対して、データに基づいて批判を展開する本論文は、現代的な状況において社会科学の知が実践されることの重要性を明示する役割をも果たしている。
Hall, Stuart (1988) The Hard Road to Renewal: Thatcherism and the Crisis of the Left, London: Verso.
Hay, Colin (1999) 'Crisis and the Structural Transformation of the State: Interrogating the Process of Change', British Journal of Politics and International Relation, 1 3: 317-344.
Moffitt, Benjamin (2015) 'How to Perform Crisis: A Model for Understanding the Key Role of Crisis in Contemporary Populism', Government & Opposition, 50 2: 189-217.
[1] 「死んだ猫戦略」は、オーストラリア出身の選挙コンサルタント、リントン・クロスビーに特徴的な選挙戦略を描写する用語である。ディナー・パーティの最中に死んだ猫が突然、食卓に置かれた場合、人びとの注意は猫の死体に集まり、パニックが起こることで、より根本的な問題であるなぜその猫が死んだのかという点に関しては問われなくなってしまう。このように、「死んだ猫戦略」では、重要で根本的な政治問題から目を逸らすことを目的として、センセーショナルでショッキングなできごとを強調し、騒ぎを起こす。