第13章 有田伸「考えたくない事態にどう対応するか?―災害への備えとネガティブ・ケイパビリティ-」(書評:矢守克也)

「考えたくない事態」について考えることの功罪

矢守克也
京都大学防災研究所教授

 本章がそうであるように、近年、「考えたくない事態」についてどのように考えるのか、このことを問う論考が相次いで公刊されている。言うまでもなく、「考えたくない事態」が実際にしばしば起きているからである。本章は、東日本大震災の経験をベースにしているし、最近論壇で話題になった『崩壊学』は、地球規模の気候変動問題等を念頭に置いて書かれている。

 「考えたくない事態」に対して、人間や社会が、それをまったく考えない「楽観・無視」の極(正常性バイアス、否認など)か、正反対に、それを真正面から直視しすぎる「悲観・固着」の極(抑鬱・ストレス、絶望など)か、このいずれか一方の極端に振れやすいことは、本章をはじめ多くの論考が一致して指摘しているところである。問題は、いかにして、この両極への退行に歯止めをかけ、「考えたくない事態」に対するポジティヴな反応を引き出すかである。本章で、その鍵として提示されているのが「ネガティブ・ケイパビリティ」である。評者も、その考えに全面的に首肯する。

 その上で、ここでは、「考えたくない事態」について、本章とは異なる角度からコメントしておきたい。もっとも、この小文の最後には、再び、「ネガティブ・ケイパビリティ」へと回帰する。

 さて、本章では、「考えたくない事態」の発生を抑止したり、その発生によるマイナスを軽減したりすることを目標として、言いかえれば、将来生じるかもしれない「考えたくない事態」に対するインストゥルメンタル(媒介-手段的)な機能の観点から、「考えたくない事態」への向き合い方について考察している。

 しかし他方で、「考えたくない事態」について考えること自体が、その事態の回避という範囲を超えた前向きなポンテンシャルを有している可能性もある。インストゥルメンタルな機能とは異なる働きがありそうなのだ。

 2020年1月、発生から25年を迎えた阪神・淡路大震災にあわせて、「たいせつなもの展:絵と写真と言葉で伝える防災」という名の小さな展示会が開催された。企画した江藤沙織さんは、評者の知人で、滋賀県内のマンションを拠点に、主婦そして女性の立場から防災活動を進めている方である。

 防災の展示会と言えば、家具固定の器具など防災グッズが並んだり、危険箇所を示したハザードマップが掲示されたりといった光景が思い浮ぶ。しかし、「たいせつなもの展」は、そうではない。自分にとって一番な大切なものを描いた絵や写真が並ぶ。

「わたしは、ポメラニアンのうめちゃんです。嫌なことがあっても、うめちゃんを見たら忘れられるから。」

「歌うこと。子どものことからずっと歌うことがだいすきだった。歌で様々なことを乗り越え、人と出会い、繋がり、今を生きている。」

「きりんのぬいぐるみ。産院でもらったもの、子どもが生まれて初めて目を開いたときに見たもの。」

 江藤さんはこう語る。「防災という言葉から、私たちは、たとえば、水や食料などの物資であったり、生き延びるための知識であったり...どちらかといえば、『非日常』を連想しがちです。しかし、私たちは、子育て中のママを中心に、日頃からだれかの小さな『助けて』を拾い合い、助け合いながら、防災は『日常』そして『生活』そのものという意識で活動しています」。

 江藤さんは、阪神・淡路大震災の被災者ではない。だからこそ、被災地という「非日常」ではなく、「日常」に暮らしにある「大切なもの」を、「考えたくない事態」について考え始めるための始発点にしたのだろう。「考えたくない事態」の恐ろしさは、何でもない「日常」を突如破壊し、奪い去ってしまう点にあるのだから。

 実際、阪神・淡路大震災に限らず、各地の被災地で、がれきや津波で汚損した写真を修復したり、模型で在りし日のまちの様子を復元したり、災害で廃止されたバス路線を一日だけ復活させたり、といった活動が展開されている。こうした活動も、あたりまえのように存在していた「大切なもの」をもう一度この手に取り戻したいという切実な気持ちの表れであろう。

 「大切なもの」の多くは、それがあたりまえの日常から消えて初めて「大切なもの」だったとわかる。しかし、それでは遅いのだ。「考えたくない事態」によってそれらが奪われてしまう前に、しっかり見つめ直しましょう。「たいせつなもの展」には、このような思いが込められている。

 つまり、この展示会は、「考えたくない事態」について考えることが、私たちの日常に対してもたらす「コンサマトリー」(直接-享受的)な機能の方に光を当てているのだ。「考えたくない事態」について考えることを通して、実は「考えたくない事態」以上に、ふだん「考えていないこと」、すなわち、日常そのものについて考えることを人びとに促していると言ってもよい。

 実は、評者の研究室でも、これと似た考えに立って、高知県黒潮町で「未来へのメモワール」(仮称)という名の小さな取り組みを始めている。黒潮町は、筆者が長年にわたって、地震・津波防災に取り組んでいる町である。これまで何度も、地震・津波の破壊力について住民に伝えてきた。「最大30メートルを超える高さの津波がやって来るかもしれません、震度7の地震動も強烈です」などと、「考えたくない事態」について語ってきた。

 しかし、だからこそ、「考えたくない事態」の脅威だけを強調するアプローチの限界も感じるようになった。災害リスクをダイレクトに伝えるだけでは不十分だ。それでは、人びとを過度に脅えさせ、逆に諦めさせることにつながる場合もある。むしろ、「考えたくない事態」によって奪われてはじめて、「あれだけは残しておきたかった」と後悔することになるだろう存在、言いかえれば、未来へと引き継ぎたいメモワール(思い出のものやこと)がもつコンサマトリーな価値を、まずは(再)認識してもらう。次に、この迂回路を経た上で、「考えたくない事態」への備えも高めていただく。このような2つの段階を踏むことが、本章が課題視する「考えたくない事態」をめぐる人びとの緊張や負担を和らげ、筆者有田氏が最重要事項として提起している「ネガティブ・ケイパビリティ」を高めることにもつながるのではないだろうか。