楊鐵工廠股分有限公司

1996年9月6日午後

 

VTRによる紹介

 1967年に株式会社になった。高速精密旋盤を開発。1974年からNC工作機械も作り始めた。78年からはフォークリフトも作り始めた。83年からコンピュータ化,軍需製品の協力工場ともなる(ギアを製造?)。

 社内でQAC品質保証運動などを行う。

 鋳品部があり,鋳造も行っている。Ball screwも内部で作っている。自動倉庫システム。

 営業額は去年15億元,うち工作機械が6065%を占め,CNC旋盤が70%,MCが25%。今年は16億元ぐらい。輸出が60%。輸出先は欧州が40%,アメリカが2530%,中国が5~15%。中国が最近の輸出の重点地域。アメリカはかつては最大の市場で,輸出の50%を占めていたが,その後クオータを実施して,昨年ようやく開放した。アメリカが制限したため欧州への輸出を増やした。

 今年の末から3年計画で南投県に移転する予定。新しい工場はISO9000に基づいて建設される。台中での協力工場にも南投への移転を持ちかけている。南投にも協力工場は見つけられるだろう。

工場見学 

    工場の概略図

 

 


          フォークリフト工場  

                自動倉庫      組立

 

          組立         軍事関連        鋳造工場

          機械加工       shop

 

          IC関連の準備     

                     統一材料処

 

             オフィス     オフィス

 

 

 

 

 統一材料処では購入した材料を統一的にサンプル検査して問題があったらここではねる。

 部品の内製率は70%に上る。製造部では内部の部品の他,外部への部品も作っている。

 今後半導体製造設備にも進出する予定である。今日本のディスコと協力してICのウエハー切り機を作ろうとしている。工研院の電子所や機械所と協力している。工研院側も楊鐵だけがそうした機械を作る能力があると見なしている。

 機械加工ショップで使っている設備の一部は楊鐵が製造したものである。

 鋳造部品をなかでも作っている。外からの購入もある。大陸には5つの協力企業があり,そこから鋳造部品を入れている。これら協力企業は工作機械,ギアなどの企業。

 部品の自動倉庫は10数年前に自社で設計して作った。

 技術者は6070人いる。

 フォークリフトは年12001500台の生産規模。エンジンは日本,ドイツから輸入。南投に移ったら年産3000台に拡大する。年産3000台でbreak even pointである。フォークリフトはかつては全部検査していたが,今は各部品のレベルで検査して完成品はサンプル調査。フォークリフトの組立部門にタイ人労働者100人が働いている。従業員は前者では500人余り。

 フォークリフト工場はライン作業になっておらず,大まかには作業の流れに沿っているが,工場は下記の通り整っていない。部品の在庫もタイヤなどがやや多い。

 

 

 

    しかかり品

             タイヤ

             置き場

    組立

             部品

             置き場

 南投に移った後はラインを作るという。フォークリフト部門は年末には移転する。

 

 工作機械の部品の内製率が高いのは,コストと品質をコントロールするため。ControllerFanuc(全体の90%), 三菱,Siemensのものを使っている。鋳造までやっている工作機械メーカーは台湾では珍しいが,これは董事長の考え方である。鋳造を抑える必要があると考えている。鋳造部門は内部むけのみの仕事をやっている。稼働率が維持できるかどうか。今年5月に中国と緊張したときは稼働率がかなり落ちた。

 フランスのリフトの輸入代理商もやっている。

 フォークリフトを生産し始めたのは政府の奨励による。部品は後ろのカウターバランス,車架などを作っているのみ。

 

企業史

 楊鐵の成立は1943年。楊氏の父が台拓から船の縄を受注した。船の縄は本来亜麻から作るものだが,材料がないのでバナナの皮の繊維から作る。バナナの皮から縄を作る機械を作り始めた。父48歳,楊氏18歳の時,父が仕事を辞めたくなり,楊氏が嗣いだ。ヤマヨ鉄工という会社から日本人の顧問を招いた。その後終戦になった。紡織機を木で作ったり,台湾で必要なものは何でも作った。始めた本格的に作ったのは万力。

 朝鮮戦争が爆発した。アメリカが物資を買い入れるので,小さな旋盤を作って米軍に売った。紡織機器も作った。台湾で必要なものは何でも作った。

 1967年に高速旋盤を作り始めてから継続的に工作機械を作るようになった。技術は,自分で旋盤を使っていたので,台湾ではよい旋盤を作っていないという事がわかっていた。旋盤はいろいろな旋盤を参考に,それぞれのよいところを合わせて作った。よく売れて粗利300%をあげた。

 その後台中精機,Dagangなどが楊鐵のものを真似し始めて,競争が激しくなった。民国7080年代には競争が激しくなった。NC旋盤が2.5万ドルにも下がってしまった。

 ベトナム戦争以後は東南アジアへの輸出が増えた。朝鮮戦争,ベトナム戦争で儲けた。

 アメリカ軍への納入やアメリカの援助などがビジネスになった。東南アジアへの輸出は華僑には頼らなかった。当時の華僑はレストランやクリーニング屋しかやっていなかった。

 ベトナム戦争の頃は輸出と国内の比率は1:1ぐらい。70年代にアメリカへの輸出が増えた。アメリカ市場は大きいので西と東とは違う。一つの代理商だけに頼っていてはいけない。最初はCadellac社という会社を経営するバスピー氏が我々の機械をアメリカ西部の展覧会でみて注目してアメリカで売ろうとしたが,彼は金がなかったので三菱商事に金を出してもらった。アメリカには国際貿易の人材がいない。アメリカ国内はブローカーが紹介してくれる。バスピー氏の会社はその後倒産し,楊鐵が買い取って販売子会社とした。アメリカに最初に輸出したのは楊鐵。その後も香港,東南アジア市場も楊鐵が率先して開拓していった。香港では大陸から来た人が多いので大陸の機械を使いたがるが,楊鐵が台湾の機械を知らしめた。600RPMがふつうだったのを1800RPMのものを開発して市場を開拓した。

 1970年代には高速旋盤やNC旋盤がアメリカでよく売れた。高速旋盤は小企業,NC工作機は既に高速旋盤を持っていてさらに高度化したい大企業で売れる。

 アメリカでの販路は米子会社-dealerbrokeruserとなっている。

部品内製

 1960年代は部品内製率が高く,70年代に低くなった。かつては部品メーカーは粗なものは作れたが,精密なものは無理だった。設備が買えないからだ。主要なものは自分で作らねばならなかった。

 従業員のなかで自分で会社を起こそうと言う人は多い。1970年代から大企業からspinoffして部品メーカーを作る人が出てきたが,これはしょうがない。

 部品を外注しない理由は,工作機械の景気がよいとき外注価格が上昇し,景気が悪くなると下がる。中で作ればコストは安定する。

 下請け企業は100社ぐらいあり,板金類,鋳物などを頼んでいる。研究開発のとき鋳造が必要なので維持している。

 麗偉,大liは鋳造を持っていない。彼らはどうやって研究開発しているのかしらない。台中精機も鋳造部門を持たなかったが,最近2億元投資して鋳造,板金などの工場を作った。

多角化の理由

 工作機械は資本財なので,景気がよくなれば売れるが,景気の上昇期からピークまでしかよい時期がなく,あとは売れない。その点フォークリフトは人が思いものを持ち上げたいと思う限りいつでも売れる。またICウエハー切り機は世界の潮流だから。私はこれをやるときに専門家にICは斜陽産業になるかと聞いたら,ならないという答えだったのでやることにした。

 

研究開発

 董事長(総経理)が自らリーダーとなってやっている。市場調査よりも私(総経理)の直感の方が当たっている。外国との技術協力はない。東芝のICリード線接続機を売ってくれるように東京に行って交渉したがまだ交渉中だ。これは3億円する。本当はアメリカのものが性能が東芝よりもよいがアメリカは売ってくれない。

 CNCの導入は,まずCNC工作機械を買ってきて,それを使ってみてその構造,原理を学びとり,FANUCも手伝ってくるがまず自分で掌握することが必要だ。

 工研院機械所や経済部工業局は研究開発支援の予算を持ち,講座も行っている。工研院とは今ICウエハー切り機のプロジェクトがあるのみ。過去には多くの共同研究プロジェクトがあった。リード線接続機も将来共同でやりたい。もちろん政府と民間の考え方は違う。

 

 大陸とは部品の提供関係がある。投資もしているが,ほんの少額で,ものの作り方を教えて作ってもらう程度である。台湾政府からいろいろな規制もあるが下には対策がある。中国はまだリスクが大きく,投資環境も悪く,まともになるのは2020年頃であろう。

 

 工作機械の技術上の難点とは熱変位である。暑いところで作った部品と寒いところで作った部品が膨張縮小率の違いで,組み立てたときにずれてしまう問題である。そこで南投では全工場にエアコン設備を施す。

 

 人材流出の問題は大きい。次にいる人にたよるしかない。鋳造をやる人がいないので大陸から鋳物を調達している。

 董事長は学歴はなく小さい頃から仕事をしている。国宝級の技術を持っている。趣味で仕事している。

 資金は自己資金と銀行から借りた資金。銀行から借りて投資しすぎて経営危機に陥った。84年に更生に入り,8年の更生計画を行った。

 アメリカのVRAの影響は大きかった。台湾の工作機械産業はアメリカの国防工業に関係ないはずだが,制限された。台湾がNC工作機械をまだ年100台ぐらいしか輸出していないときだったので,打撃は大きかった。それから5年は大変だった。日本は予め情報を得ていて,2万台の工作機械を制限が発効する以前にアメリカに輸出していた。それに対して台湾政府はそうした対策を何もとらなかったので台湾で在庫がたまることになった。