産業集積と都市化:中国・温州市にみる産業集積」 丸川知雄

(日中産官学交流機構における講演要旨)

2006124日講演、214日要旨まとめ

今日は中国の温州市の産業事情についてお話したいと思います。地理的には上海の南に寧波があり、さらに南に辿っていくと温州になります。日本のみかんは温州みかんと呼ばれますが、ここから伝わってきたものです。

温州人の特徴は中国各地だけでなく世界中に移住して、そこで現地に溶け込むのではなく、自分たちの村を作ってしまう、ということです。また商売に長けており、中国のユダヤ人と自称しています。

また温州は農村工業化の1つのモデルと捉えられていて、非常に多くの産業集積を抱えています。ここの1つ目の特徴は家内工業であること、2つ目は世界中に広がる温州人商業ネットワークと密接につながっていること、が挙げられます。

私が温州を研究対象に選んだ最大の理由は、産業が立地するのに余り適さない場所であるにも関わらず、実に多様な産業集積が誰にも気付かれずに存在しているからです。

地域的には面積11,784平方km、人口740万人で日本の秋田県くらいの行政区域です。温州市の下に中国でいう県が11あり、さらに県の中に郷ないし鎮が280あります。そして都市の中心部は街道という単位に分かれますが、これは17あります。17の街道は温州市中心部ということで1つの単位としますと、全部で281の行政区画に分けることができます。これをここでは便宜上「町」と呼ぶことにします。

温州全体で製造業と農業だけで40,000以上の法人企業があり、621の業種に分布しています。これらが281の町にどう分布しているかを調査し、産業集積を浮き彫りにすることを試みました。基準として、1つの町に同じ業種の企業が15社を超え、かつ温州市全体の5%を越えていれば、産業集積と見なすことにします。その結果153の産業集積を発見することができました。主な産業集積は皮革、革靴、ランプ、ライター、バルブ、そして印刷業など。

以下では、伝統的な皮革産業から他の産業がどのように派生してきたかを検討します。温州の皮革産業は、清朝の嘉靖帝時代に水頭鎮で始まったと言われています。中華人民共和国成立後、皮革製造に従事していた民間企業は国営化され、徐々に統合されて最後は一つの国有企業になりました。改革開放後、国営企業に勤めていた元民間企業家が定年等で退職し、故郷に帰って改めて自営業で皮革産業を興しました。こうしていったん消えた出納鎮の皮革産業集積はダイナミックに復活し、1981年には210の皮革業者を数えるに至りました。

革靴産業も解放以前から皮革産業と密接な関連を持ちながら存在していました。解放後にやはり国営化されていったんは産業集積が消滅しますが、80年代に復活します。80年代には温州の革靴は粗悪品や贋物として知られていましたが、その後品質を高め、かつて有名だった上海ブランドは今やみな温州人の手に移っております。革靴産業は温州最大の産業です。80年代には革靴産業からプラスティック靴産業、ゴム靴産業、人工皮革産業などが派生し、それぞれ産業集積を形成しています。

もう1つ革関連では、革衣料産業の集積が烏牛鎮というところにあります。この産業は90年代に北京南部に飛び火しました。そこに温州人数万人が住む巨大なコミュニティーが形成され、彼らは6畳一間ぐらいの狭いレンガで造った工場兼住居に住みついて皮衣料品を作っていました。そうした革衣料の零細企業が最盛期には2300社ぐらいありましたが、2000年までにほとんど消滅してしまいました。

次に金属加工業についてご紹介します。金属加工関連の産業集積として、錠前、ポンプ、バルブ、コンプレッサー、ボルト・ナット、金型の産業集積があります。いずれも甌北鎮、永中鎮、塘下鎮の3つの町とその周辺に集まっています。温州における金属加工業の起源は1916年に瑞安市のある起業家が綿打ちの機械を製造したことに始まります。その後、市の中心部にも機械工場が増えましたが、解放後は国営化されました。ところが、1970年代初頭に突如甌北鎮と永中鎮で農村工業としてバルブの製造が始まりました。そのきっかけは定かではありませんが、解放以前からの金属加工技術が国営企業に保存されてバルブ産業に継承されたのではないかと思います。

以上みたように、温州では一つの産業が隣接地域に類似した産業を誘発し、その後その産業が変異していく結果、実に多様な産業集積が方々に形成されました。そのメカニズムは次のように考えられます。まず誰かがある産業を始めます。それが成功すると、周りの人がすぐに真似をする。あっという間に村中に広がる。温州人は成功した人に雇ってもらおうとは思わずに、同じことを自分でやろうと考えるのです。みなが同じ産業に手を出すと競争が激化し、ちょっと違うものを作ってみようと考える人が出てくる。その人が成功するとまた周りの人がその真似をする。こうして産業の多様性が次第に増してきます。

温州の産業は基本的には所得が低い階層をターゲットにしたものが中心です。中国の農村部さらにはベトナムや中央アジアなど周辺国の膨大な低級品市場を狙った産業が主です。温州は中国国内から135万人の移民を受け入れ、その大半は工場の現場労働者です。彼らの低賃金労働に支えられて安価な低級品の生産が行われています。

温州の都市化は産業集積の発展と関連しています。改革開放が始まった頃、温州の都市人口比率は16%にすぎませんでした。その後、農村部に産業集積が形成され、農民達は工業で生計を立てるようになります。1984年には龍港鎮に中国最初の「農民都市」というものが作られました。農民都市とは何か? それは「農民」身分の人たちだけで形成された都市ということです。中国で農民というのは単に農業に従事している人という意味ではなく、1つの身分です。食糧配給や仕事の斡旋という特権を与えられた都市民に対して、農民は土地を割り当てられるだけの人たちです。そうした農民たちが自らの資金で都市インフラを作り、食糧も高い市場価格で買い、仕事も自ら創造するというのが農民都市です。農民都市を作ることが可能になったのは、龍港鎮の農民たちが印刷業で生計を立てていたからでした。国家からの支えに頼らず、自発的な産業発展によって進行しているのが温州の都市化です。いま龍港鎮は周りの郷を合併して人口27万の中都市になっています。この他にも自動車部品産業が集積している塘下鎮、金属加工の永中鎮など、市政府も郷鎮の合併によって温州の各地に人口20万前後の都市ができています。こうした都市こそ中国の都市化のフロンティアだと思います。