新刊紹介
『中国の知識型経済――華人イノベーションのネットワーク』
蔡林海著、日本経済評論社、2002年4月、
291+viiiページ、定価3200円[本体]
2001年に中国の携帯電話加入者数は1億3000万人に達し、中国はアメリカを抜いて世界1の携帯電話市場となった。中国の膨れあがるIT市場は、シリコンバレーで活躍していた中国人たちの還流を促し、同時に欧米の主要なIT企業も中国の豊富な人的資源に着目して次々に研究開発拠点を中国に設置しはじめた。携帯電話の加入者数が毎年50%ぐらいの勢いで伸びていることが象徴するように、中国のIT産業はいま最も活気に溢れた産業であるが、変化が余りにも激しいため社会科学的な研究対象としては取っつきにくい。本書は果敢にもこの課題に挑んだ書である。
もっとも、ハイテク産業の研究に用いられている本書の方法はハイテクではない。著者がIT産業を分析する視点は主に人間におかれている。中国のIT産業の特徴を述べるに当たっては、その担い手たちの経歴が詳述され、中国の競争力ももっぱら理工系大学生の数から説かれている。他方、技術的観点は概して希薄である。本書が「新しいビジネスモデル」と賞賛し、2ページにわたって紹介するUTStarcomについても、いったい何の会社なのか「電気通信分野のハイテク企業」という以外何も述べられていない。著者がなぜこの会社を新しいビジネスモデルと呼ぶのかその理由を探ってみると、要は海外に留学した中国人が帰国して創業したからということのようだ。評者のみるところ、この会社は割とオーソドックスな交換機メーカーであり、ビジネスモデルとして何が新しいのかわからない。欧米IT企業が中国に設置した研究開発拠点についても、その幹部の人物像は紹介されても、それらの研究所が世界的な研究開発ネットワークのなかでどのような役割を担っているのかは具体的に明らかにされず、美辞麗句で飾られた会社の広報資料を読んでいるような感じである。
また、著者が「中国の移動体通信産業が・・(中略)・・単にグローバル企業のために安価な労働力を提供する時代から、独自の知的所有権を基礎に欧米ベンダーと競争できる時代を迎えている」(254ページ)と断言する根拠となっている中国独自の第三世代移動通信方式TD-SCDMAについても、その技術的特徴については語られず、もっぱらそれを巡る中国と欧米の政治的駆け引きが描かれている。
本書が描く中国経済の姿はバラ色である。80年代に中国が打ち出したハイテク発展計画「863計画」から、西部大開発、WTO加盟に至るまで中国政府の打ち出す政策はすべて矛盾なくIT市場の発展とつながり、所得格差の拡大には触れられているものの、それと携帯電話の普及の展望とは特に関連づけられていない。だが、果たしてそうなのだろうか。中国で今日携帯電話が急速に普及しているのは、過去の不適切な政策により固定電話の普及率が低かったために、固定電話を飛び越えて一気に携帯電話に需要が向かったとはいえないだろうか。また所得格差の拡大によって、携帯電話の普及がある時点で頭打ちになる可能性はないのだろうか。また、中国政府はこれまで欧米企業の進出に対して開放的であったのが、近年一転して欧米企業の新規投資や生産拡大の統制など民族主義的な産業政策を打ち出してきた。これによって今後の市場の拡大速度が鈍る可能性はないのか。
本書は副題にもあるとおり、華人ネットワークを繰り返し強調している。だが、ネットワークがいかなる機能を果たし、いかなる力を持っているかについて分析がなされていない。アメリカで中国系技術者たちが形成しているいくつかの交流団体が紹介されているが、それが華人ネットワークなのだろうか。ネットワークのなかを資源がどのように流れ、ネットワークにどれだけの資源動員力があるのかといった点が明らかにならないと、華人ネットワークの意義はわからない。
本書は典拠の明示や校正においても不備が目立つ。後半で盛んに出てくる「ハーバード大学ジョン・ケンニジー政治大学院」というのはケネディ・スクールのことだろう。また第8章、第9章に出てくる「チャイナ・サイクル」というのはBarry Naughton編の”The China Circle”という本を指しているようだ。第6章では電気通信業における巨龍、大唐、中興、華為の「国有企業軍団」といった言い方がなされているが、華為は国有企業ではない。
(丸川知雄 東京大学社会科学研究所)