書評
石井知章『中国社会主義国家と労働組合――中国型協商体制の形成過程』御茶の水書房、2007年。
私は数年前に中国とインドで日系の自動車部品メーカーを調査する機会があったが、工場内での生産管理や現地労働者の働きぶりなどは意外なほど違いがなかったのに対し、最も顕著な相違は、インドでは労働組合が経営を制約する要素として必ず話題にのぼるのに対して、中国では労働組合はいっさい話題にのぼってこないことであった。言うまでもなくインドは民主主義政治が定着しているのに対して、中国は一党独裁政治が続いている。この観察から、企業内の民主化の度合と国全体の民主化の度合との間には相関関係があるのではないか、という推測ができる。つまり、企業内で労働組合が労働者の利害を代表して経営を制約しているという意味で民主主義的な国では概して国全体も民主主義的であり、企業内に経営から独立した立場の労働組合が存在せず民主主義的でない国では、国全体も民主主義的でない、という相関関係があるように思えてくる。もしそのような相関関係があるのならば、企業内をのぞき込み、そこで労働組合が果たしている役割を見ることで、国全体が民主化へ向かっている予兆をそこに見つけることさえできるかもしれない。
本書に以上のような推測が書いてあるわけではないが、著者が政治学の立場から中国の労働組合を取り上げたのは、企業内の民主化と国全体の民主化との間に一定の対応関係があることに着目したためだと思われる。実際、本書は単なる現代中国の組合運動史ではなく、労働組合の動向と国全体の政治動向とが対照されながら議論が展開されている。
まず第1章では、中華人民共和国の建国当初および1950年代後半に、国営企業のなかでも労使の利害の違いが存在することを認め、労働組合が労働者の要求を汲み上げて、国家とは独立した立場から活動すべきだと主張した李立三、鄧子恢、頼若愚の思想を取り上げている。結局、三人の主張は批判され、企業内の民主化の芽は摘み取られる。それと踵を接するように、プロレタリア独裁とはすなわち党の独裁であるとする「代行主義」が決定された。労働組合の独自性を主張した三人は改革開放期に名誉回復されるが、その回復のされ方は中途半端なものである。それもあって、労働組合は三人が期待した役割を果たすには至っていない。
労働組合が労働者の利害を代表しないとすれば、いったいその役割とは何だろうか。第2章によれば、中国における労働組合の主たる役割は、生産第一主義に基づき、労働者を「労働競争」に動員することなのである。「労働競争」とは、時には単に労働の強度を競い合う競争であったり、またある時は技術革新や生産性向上の競争であり、先進的な事例を教えあう助け合いの運動でもあった。「大躍進」の時の鉄鋼増産運動の際にも労働組合は労働者の動員に活躍し、その結果、労働者を過労や病気に追いやった。つまり、労働組合の役割とは、労働者を保護することではなく、むしろ党・政府と一緒になって労働強化を遂行することである。また、著者は共産党政権が正統性の危機に陥った時に労働競争の運動が強化されているとして、労働競争が政権の正統性の回復を狙ったものだと推測している。
改革開放期には、党と行政、党と企業の機能的分離を目指す政治体制改革が進められるが、この時期の労働組合の役割はやや複雑である。第3章によれば、改革開放初期の頃には、労働者子弟の就職の援助を企業側に求めたり、通勤電車のダイヤ改正を実現するなど、労働者の生活上の要求を実現させるために、時には企業の枠を超えて活動していた。だが1980年代半ば以降、企業の統治構造が「党指導下の工場長責任制」から「工場長責任制」に移行するのに伴い、労働組合は企業内での労働者代表大会の役割強化に力を注ぐようになり、労働者代表大会を通じて企業の重大な経営方針の決定、幹部の任免や考課などの役割を果たすようになった。いわば株式会社における株主大会や取締役会の役割を果たすようになったのである。この時期は新中国の歴史の中で企業内の民主化がもっとも進展した時期と考えられる。ただ、当時の企業は製品価格を決める権限もなければ、投資や販売先を決める権限もないなど、経営の諸側面において限定された権限しか持っていなかったので、その限られた権限を労働者代表大会が分有することになったとしても、それは「労働者自主管理」とはほど遠かった。企業が持つ権限は、生産性向上の方法の選択や企業内福利の配分などに限られていたから、結局、労働者代表大会と労働組合が展開していた活動は従来通り生産性向上と福利厚生が中心だったようである。
企業内での経営参加に呼応するように、国政のレベルでも、ナショナルセンターである全国総工会は1985年に党中央や政府が国の発展計画や重要方針を審議する際には労働組合の代表を参加させるべきだとの提案を行った(第4章)。そして例えば企業破産法の制定に際しては、破産後の労働者の再雇用に関する規定を作るべきだと提言するなど、法の起草過程に一定の影響力を及ぼすようになった。また、末端の組合の一部では組合幹部の選挙方法の改革が行われることで、労働組合が真に労働者を代表するものとしての地歩を固めようとしていた。こうした企業内の民主化の果てに1989年の民主化運動における自主労組の登場が起きた。だが、民主化運動の鎮圧と共に、企業内および国レベルでの労働組合の役割は一挙に後退し、国レベルでは一党独裁が強化され、企業内でも党委員会の指導が強調されるようになった。
その後、21世紀の今日に至るまで労働組合の自立化への動きは見られず、党・政府に包摂されたままとなっている(第5章)。1992年に労働組合法が定められたが、組合にはスト権も認められず、労働者の権利よりも党と国家に対する義務のほうが強調されている。ところが、1990年代以降、労働者の利益が擁護されるべき場面はむしろ激増しているのである。まず国有企業が大規模な人員削減に踏み切り、のべ4000万人前後が失業者として放り出された。農村からは多数の出稼ぎ労働者が沿海部に流入し、劣悪な労働環境と低賃金のもとで働くようになった。外資系企業や私営企業、民営化された国有企業など、明確な利潤動機で経営される企業が主役となり、1950年代と違って労使の利害対立は鮮明である。労働組合は労使間の調停活動を繰り広げてはいるが、労使対立はむしろ組合が関与していないストという形で表面化している。
やはり冒頭で述べたように、中国では労働組合は企業経営においても、また国政のレベルでも余り話題に載せる必要性のない存在にすぎない、というのが現状のようだが、本当は組合はもっと力を発揮すべきだろう、という著者の熱い思いがこの450ページを超える厚さの本を書かせた原動力になっていると感じた。
ただ、本書を通読するためはかなりの忍耐力を要する。第一の問題点は、本書が中国の資料を比較的加工度の低い形で使っていることにある。本書が扱っている組合問題に関する中国の文章は、一般に厚いイデオロギー的修飾の被膜に覆われ、表現も直截ではないため、その中から真実を掘り出すには、そうした被膜を剥がし、時には紙背を読むような作業が必要である。だが、本書では比較的生に近いままの資料が提示されており、その分読者には負担がかかる。
第二の問題点は、本書が「コーポラティズム」という政治学の概念に、中国の労働組合史を無理に当てはめようとしていることである。「国家コーポラティズム」と「社会コーポラティズム」という対概念を用いて解放後の労働組合史を整理する試みは本書の第5章で行われているが、読むほどにコーポラティズムという概念を当てはめることが適切なのか疑問が増してくる。実際、著者もコーポラティズムという概念を最後は半ば放棄し、中国は「東アジア型コーポラティズム」だとか「新伝統主義」だとか言い出す(402~403ページ)が、これらの言葉はますます意味不明なのである。本来、概念の効力とは、現実の事象がその概念によって新たにグループ分けできるようなときに発揮されると思うが、本書の場合には既にグループ分けがなされている歴史的事象に対して新たな修飾語を付加しているだけのようにも思える。そういうわけで、実は先ほど書いた本書の要約は、意図的にコーポラティズムの概念を使わずに書いたのだが、そのことによって本書の内容が大きく損なわれたとも思えないのである。
第三の問題点は、本書は文書資料に依拠して労働組合の実態を明らかにしようとしているが、おそらく実態は文書資料だけからではなかなか見えにくいことである。日本でも労働組合はともすると御用組合化し、活動も形骸化しがちであるが、まして中国ではますますそうだっただろう。形骸化した活動は、しかし、形骸的な文章によって修飾されて表現されていることもまた容易に想像がつく。ゆえに文章だけから活動の実態を把握することは容易ではないと思われ、そうした限界はインタビューやアンケートなど他のアプローチで補うのが効果的であろう。
以上のように、本書は一部冗長なところもあり、「コーポラティズム」概念を用いた分析にも疑問符がつくが、主たる内容を構成する第1章から第4章までの部分は比較的読みやすく、かつ一般には入手しがたい資料を駆使し、50年間の労働組合史を骨太に描いている。国が一党独裁体制であるのに対応して、現在の中国企業では資本家独裁体制が敷かれているが、そこに民主化の兆候が見られないかどうか、私も著者とともに期待を持ちつつ観察したい。
丸川知雄