一兵卒からみた動向分析部

丸川知雄

 

 『アジア経済』で「アジ研の50年と途上国研究」という座談会シリーズが続いているが、201010月号に掲載されたその第7回は「動向分析事業の歩み」と題し、木村哲三郎, 竹下秀邦, 浜勝彦, 福島光丘の4氏を囲む座談会が掲載されている。この座談会のシリーズは毎回興味津々で読んでいるが、特にこの回は自分が所属していた動向分析部の由来についてわかって面白かった。

 アジア経済研究所動向分析部は1963年に「動向分析室」として誕生し、98年に地域研究部の一部と統合して地域研究第一部となって発展的に解消した。

 座談会によれば、動向分析部が誕生したのは木村哲三郎氏、今川瑛一氏、衛藤龍太氏、野中耕一氏が当時の渋沢正一理事との会話の中でアジ研には現状分析が欠けているという話になってできたものである。最初の室長は東畑精一所長が兼任し、続いて農水省から来た梶田勝氏が室長になった。ただ、座談会記録を読んでわかることは、動向分析部というのは1961年に入所したばかりの木村氏ら若手研究員の発案によって誕生し、成立後の仕事の進め方も木村氏らが暗中模索しながら作っていったことだ。

 当時の若い研究者らが新たな研究方法を作り上げようとの壮大な志のもと励んできたことが座談会を読んでわかったが、私が1993年から2年間動向分析部に在籍して見たのは、そうして作り上げられた研究方法が、時代の変化や世代交代に対応して更新されず、すっかり硬直化した姿だった。

 例えば、動向分析部では新聞のクリッピングを行っていたが、座談会での木村氏の発言によればこれは京大人文研の桑原武夫がフランス革命の共同研究を行ったときの方法に倣ったものだそうだ。だが、私が動向分析部に勤務したときには、そうした初志はすっかり忘れられ、単なるルーティンワークになっていた。動向分析部のスタッフは担当国の新聞に重要な記事をみつけたら太い黄色の色鉛筆で囲んでおく。そうするとアルバイトの人がそれを切り取って台紙に貼り、日付順に並べられて保管される。市ヶ谷時代の動向分析部の真ん中には数十年来の新聞切り抜きを納めた薄暗い保管スペースがあった。

 私は動向分析部に勤務する前の海外派遣期間中に自分で15紙ぐらい中国の現地紙をとって切り抜きを作っていたので、研究の材料としての新聞の有用性については実感していたが、整理・保管する方法については動向分析部の方式には全く賛成できなかった。私は研究テーマとして追っている分野がいくつかあり、中国の経済の動向を分析する仕事も加わったので、単純に日付順に並んでいてもダメで、自分の関心分野ごとに別々のファイルに入れておきたい。しかも、ただでさえ数日遅れで届く現地紙を、アルバイトの人が台紙に貼るまで待っていたら2週間ぐらいかかってしまうが、もっとすぐに必要になることが多い。コピーが便利でなかった1960年代ならいざ知らず、1990年代ならコピーして自分の手元でいろいろなファイルに分けておいた方がずっと便利だし速い。結局私は動向分析部に在籍した2年間もっぱら自分で記事をコピーして分類整理し、部の業務である色鉛筆でのマーク付けはサボタージュした。

 そのことを特に誰かにとがめられた記憶はない。ただ、部の会合などで「いま部でやっている新聞のクリッピング作業はアルバイト代の無駄です。何十年も前からの切り抜きを後生大事に保管しているのも意味あるとは思えません。『動向分析』をやっているのだから、過去のものを持っていたってしょうがないじゃないですか。いっそ思い切って捨ててしまったらいかがですか」と発言してみたが、部の創始者たちの思い入れの強いこのシステムを改革しようという動きにはならなかった。1995年に私は動向分析部から他の部に異動になったので、アジ研が幕張に移転したときあの薄暗い保管スペースに死蔵されていたクリッピングの山がどうなったのかは知らない。

 もう一つ強く疑問に思ったのが動向分析の成果を発表する媒体である。動向分析部の事業の柱は1970年に創刊された『アジア動向年報』である。年報のなかでも「日誌」が核心であるというのが部の創始者たちの考えで、その日誌の前に来る各国の動向に関する解説は、部の長老たちは「前文」と呼ぶ。座談会でも木村氏が「前文」という言葉を使っているが、これは動向分析部に在籍したことのある人にしかわからないローカルな用語なので注をつけるべきであっただろう。ともあれ、『アジア動向年報』は、例えば2009年にあったことをまとめて内部での相互チェック、校正などを経て作るので、どんなに順調でも2010年の5月、私が在籍した頃は誰か足をひっぱる人がいて7月ぐらいに出ていた。果たして半年も前のことを書いた文章を「動向」と言えるのだろうか、というのは当時から私が疑問に思っていたことで、皮肉混じりに「『アジア現代史年報』にでも書名を変えたらどうですか」と言っていた。アジ研の他の雑誌、例えば『アジア経済』『アジ研ワールドトレンド』、また動向分析部で出していた『アジアトレンド』に論文を書くと、何かしら読者からの反応があるが、動向年報は2回書いて反響はゼロである。他では取り上げられることの少ない国ならいざしらず、中国経済ウォッチャーが世にあまたいる中で、わざわざ半年も遅れて出てくる『アジア動向年報』で中国経済の動向を学ぼうとする人はいない。

 故今井健一氏は1999年以降都合6回も動向年報に中国の経済動向を書いているが、彼も社会的インパクトのなさに参っていたようで、一度はやや涙混じりの声で「読んでください。一生懸命書いているんですから」と言われたこともある。彼は何回か書いたばかりの原稿を添付ファイルで送ってくれたが、それぐらいのタイミング(23月)であれば、前年のことであっても現在進行型の感じがして面白く読んだが、半年以上経つともうそれは「現代史」である。動向分析部の長老たちが『アジア現代史シリーズ』を1人1冊ずつ書いたのは必然的な帰結だったように思う。

 媒体の面では、幸いにも私が動向分析部に在籍していた間に、動向分析部が単独で季刊で出していた『アジアトレンド』と、『アジ研ニュース』などが合体して月刊の『アジ研ワールドトレンド』が創刊されたので(ちなみに私はその創刊号に中国の自動車産業に関するレポートを寄稿している)、動向分析をタイムリーに発表する場ができた。さらに最近でアジ研のホームページという媒体もあるのでtime to marketの点では格段の進歩である。

 一方、『アジア動向年報』に関しては、座談会の最後の注に販売部数が示されているが、2004年版の844部から次第に減って2009年版は632部だそうだ。これは商業出版としては成り立たない数字である。私はアジ研の報告書として1999年に出した『中国産業研究入門』を蒼蒼社という出版社に持ち込んで出してもらったことがある。蒼蒼社の社長が「こういうものは続けて出すのが大事だ」とおっしゃるので、2年ごとに出すことになった。その第1弾として出た中国産業ハンドブック[20012002年版]』は1500部刷って1年後に売り切れ、2刷になった。「地方小出版流通センター」という経路でしか流通しない本としてはまあまあの健闘ではなかろうか。
 ちなみに蒼蒼社の本は『アジア動向年報』よりも装丁はずっと簡素で、相当低コストなはずである。『中国産業ハンドブック』の場合、内容面の編集のみならず、「てにをは」の修正の類もすべて編者(つまり私)がやっていた。それでも蒼蒼社では1500部が最低ラインで、それ以下の部数しか販売が見込めないものは出さないようだ。『中国産業ハンドブック』はその後2年ごとに出していったが、販売部数は次第に減って、
2007-2008年版は1500部刷ってたしか950部ぐらいの販売にとどまり、この時点で蒼蒼社からもう続けられないと引導を渡された。書く側も寄稿者が櫛の歯が欠けるように減っていき、編者の私とアルバイトの大学院生とで何とかデータなどを更新してカバーする章が増えていたので、私の方からももう投げだそうと思っていた矢先なので、未練なくやめてしまった。部数が少ないと印税も反響も少ないので、書き甲斐がなくなって執筆者が抜けていくのは責められない。そういう無理のあることを『アジア動向年報』はもう40年もやっている。