毛沢東と酒をめぐる日経新聞夕刊コラムの珍説

 

その1

 2002年5月11日付け夕刊「主役の食卓」の「毛沢東とマオタイ酒」(塚田孝雄氏執筆)は、中国での生活経験を有する者から見ますと数々の疑問があり、看過できないと思いましたので投書いたします。

 塚田氏の文では「師範学校時代・・・彼(毛沢東)が当時、愛好していたのが『マオタイ酒』だ」と述べています。しかし、当時の時代背景や毛沢東自身に関するこれまでの定説に照らしてみると、これはまずあり得ないことです。そもそも「マオタイ酒」というのが「日本酒」のような一般名詞ではなくて一つのブランドであることをこの著者はご存知なのかも疑われます。「マオタイ酒」(茅台酒)は、貴州省北部の茅台鎮というところで産する一種の「白酒」(透明の蒸留酒)で、現在は貴州茅台酒株式会社の持つ商標です。日本で言えば「越の寒梅」のようなものですが、毛沢東が若い頃飲んだ酒のブランドなど一体どうやってわかるのだろう、という素朴な疑問があります。加えて、当時から既に銘酒であった茅台酒を、師範学校の学生が愛好することなどあり得たのか、当時の流通事情を考えると貴州省から遠く離れた湖南省で茅台酒を入手することができたのか等、疑問が湧いてきます。

 百歩譲って、ここで塚田氏は「マオタイ酒」という言葉で「白酒」一般を指しているのだとしましょう。塚田氏は続いて言います。「毛沢東は学友らとこの酒をあおっては、議論にふけっていた。」この一文も、絶対にそういうことがなかったとは言い切れませんが、ほとんど間違いといっていいでしょう。毛沢東は酒を飲むのが好きでなかったというのが中国での定説です。そのことは貴州茅台酒株式会社のホームページの記事「毛沢東と茅台酒」にも記載されています。

 塚田氏は続いて、「それだけ好んだ酒を味わえなかった時期もある。」として、長征の期間に毛沢東や兵士たちがいかにひもじい生活を送ったかという話を始めます。「四十代のころの彼(毛沢東)の食生活は驚くほど粗末だった。イノシシや野草、木の実はもちろんのこと、カエルや野鳥、ヘビまで、あらゆるものを食べてしのいだ。牛の肉ではなく皮が手に入った際も、指揮官と兵士が車座になって毛をむしり、細かく切って鍋でグツグツ煮て、舌鼓を打ったという。革バンドまで、同じようにして食べたほどだ。」

 ここの文章は全く口からでまかせとしか思えません。カエル、野鳥、ヘビは中国ではひもじいときにしょうがなく口にするようなものではありません。カエルは決してゲテ物ではなく、中国では鶏と同格以上の食材ですし、至極日常的に食されています。野鳥、ヘビとなると、高級食材であり、レストランでのごちそうのメニューです。「長征の時に毛沢東はカエル、野鳥、ヘビを食べていた」なんていう文章を中国人が読んだら、「共産党指導者たちは苦しいときになんたる贅沢をしていたのか!」と憤るに違いありません。

 文化大革命期など、生活が苦しいときに人々はコウリャンやトウモロコシの粉で作ったウォートウ(蒸しパンのようなもの)を食べ、いよいよ飢饉の時には、野草の根や木の皮を食べましたが、紅軍兵士が苦しいときに牛の皮を食べるということはまず考えられません。紅軍兵士は貧しい農民出身者が多く、もともと動物性のものを余り食べる機会がありませんから、牛の皮を食べようなどとはまず思わないはずです。そもそも牛はもっぱら役畜として使われていますから、牛の皮などまず手に入らないはずです。

 

 毛沢東が若いときにどんな食生活を送っていたのか、長征の間には何を食べていたのか、というようなことはもとより歴史に記載されているようなものではないので、塚田氏の記述が絶対に間違いだと反証することはできません。しかし、塚田氏の文章は中国での常識と余りにかけ離れており、こと食に関する部分については口からでまかせとしか思えません。この調子では、他の回も同様のでまかせであった疑いも生じ、誠に残念というほかありません。(終わり)

 

 

上記の投書に対して筆者の塚田孝雄氏より返信(反論)がありました。それに対する私の再投書を以下に掲載します。

 

その2

 まず、「毛沢東が師範学校時代にマオタイ酒を愛飲していた」というくだりに対する私の疑問に対して、貴殿(塚田氏)の示された論拠をまとめれば、①横浜中華街の主人がそう言っていた、②毛沢東の詩からの想像、③長江を利用すれば長沙まで茅台酒を運ぶことは可能である、④紅軍が茅台を襲ったのは軍の志気を上げるために酒を飲ませるためと想像され、これは毛沢東が茅台酒の味を知っていた証拠である、⑤中国では毛沢東や紅軍の聖化が行われており、毛沢東も酒など飲まない聖人にされてしまった可能性があると某中国通もいっていた、という5点です。

 このなかで②~⑤は毛沢東が茅台酒を若い頃に飲んでいた論拠にはならず、せいぜい飲んでいなかったとは断言できない論拠にすぎません。積極的な意味での論拠は①のみですが、中華料理屋の親父の話に典拠があったとは全く驚きの至りです。しかし、その親父はとんだ食わせ者です。貴殿はマオタイ酒を注文され、「濃いウィスキーの色をした、芳香のきつい酒」が注がれた、と書いておられますが、その親父はマオタイ酒と称して別の酒をついだのです。なぜならマオタイ酒は無色透明だからです。

 ②はコメントするに値しませんが、③~⑤については一応コメントしておきます。

 まず③について、もちろん河を使って輸送できる可能性がありますが、1980年代後半の時点でもマオタイ酒は地元と大都市の友誼商店(外貨ショップ)以外ではまずお目にかかることができなかったことを考えると、まして毛沢東の青年時代に湖南省の田舎でマオタイ酒が入手できたはずがないと思うのです。現在マオタイ酒の生産量は年6000トンですが、1952年の段階でやっと年産75トンで、こんな稀少な酒が湖南の学生のもとまで流通してきたとは思えません。水運を使って輸送する可能性があるということが論拠になるのならば、毛沢東が日本酒やスコッチを愛飲していたと言い張ることだってできます。

 次に④について。上記からマオタイ酒の味を知っていた人が紅軍のなかにいたとは思いませんが、マオタイ酒の評判ぐらいは聞いていたかもしれません。しかし、軍隊に酒を飲ませるために茅台鎮を襲ったというのはおよそ荒唐無稽な想像にしかすぎません。国民党に対して紅軍が長江を渡ろうとしていると見せかける陽動作戦を行うために、貴州省から四川省に通じる交通の要衝であった茅台に来たとソールズベリーの『長征』に書いてあります。酒を飲むのが目的なら、この地方を訪れた人なら誰でも知っているように、酒の里が他にも数多くありますから、何も茅台でなければならないということはなかったはずです。

 ⑤について。中国では毛沢東を聖人のように描く傾向があることは否めませんが、酒を飲むということは中国では不名誉なことでも何でもありません。ちなみに周恩来は酒豪だというのが定説です。1972年のニクソン訪中の際に周恩来が宴会を催したとき、マオタイ酒の話題になり、周恩来が「(私は)長征のとき、マオタイ酒を一度に25杯飲んだことがある」(李健『釣魚台国事風雲』)と語ったという話もあります。一方、毛沢東については、毛沢東の私生活を暴露した李志綏『毛沢東の私生活』のなかでも酒を余り飲まないと書いてあります。

 新華社貴州分社のホームページ(http://www.gz.xinhua.org/htm/11/index01.htm)ではマオタイ酒のことが実に詳しく書かれていますが、そのなかの「毛沢東と茅台酒」と題する文章では、「毛沢東は新聞でマオタイ酒のことを知ったが、最初に飲んだのは1935年3月16日の『三渡赤水』(長征の途上で紅軍が茅台に来たとき)の時であるはずだ」と記されています。貴殿は日経新聞に書かれた文章のなかで、毛沢東は学生時代にはマオタイ酒を愛飲していたが、長征の間は飲めなかったと書かれていますが、実際にはその全く正反対だったようです。

 

 私の第二の疑問点は、長征の間、毛沢東の「食生活は驚くほど粗末」で、「イノシシや野草、木の実はもちろんのこと、カエルや野鳥、ヘビまで」食べ、果ては牛の皮や革バンドまで食べたというくだりについて、カエル、野鳥、ヘビは決してひもじいときにしょうがなく口にするものではないこと、牛の皮を食べるということもまず考えられない、というものです。

 これに対して貴殿はお手紙のなかで論拠として『中国赤軍物語』を挙げました。毛沢東や紅軍が聖人化されていることに注意を促す貴殿が、まさに紅軍の聖人化の極みともいうべきこの本を素直に信じているのは理解できませんが、ともあれこの本は長征に参加した将兵の手記を集めたもので、確かに長征の過程におけるひもじい食生活のことがいろいろ出てきます。江西省の山中の野戦病院で食料がなくなり、苦菜、木の皮や筍、どこからか手に入れた牛の皮、最後は革バンドをゆでて食べる話がでてきます(275ページ以下)。また福建の山中に立てこもった部隊がトノサマガエルを捕る話(113ページ)、四川省の大雪山を越えるときに牛の皮、羊の皮、キノコ、松の実、炒った麦、野草でしのぐ話(205、207ページ)、大湿地帯で食料がなくなり、野草を煮て、ハダカムギとそばを一粒ずつ入れる話(214ページ)などが出てきます。

 牛の皮を食べる話が本当に出てきたのは、私の見込み違いでしたが(但し、食べつけなかったので兵士たちは下痢した)、イノシシ、野鳥、ヘビを食べる話はどこにも出てきません。そもそもひもじい食生活の話の多くは孤立した部隊のことで、とりわけ牛の皮と革バンドを煮た話は山中に孤立した野戦病院の話であって、毛沢東がこうしたものを食べたとはどこにも記されていないのです。井岡山に革命根拠地を作ったときに、米がないときはカボチャでしのいだというくだり(22ページ)だけが唯一毛沢東も直接関係していたと思われる箇所です。

 

 お手紙を拝読して改めて無から有を生み出す貴殿の想像力には感服いたしました。『中国赤軍物語』やソールズベリーの本を原文でお読みになり、台湾や香港で関係資料を探すのもけっこうですが、毛沢東が学生時代にマオタイ酒を愛飲していたという珍説はどこにも見つからないことでしょう。(終わり)