今井健一・渡邉真理子著『企業の成長と金融制度』(シリーズ現代中国経済4)(名古屋大学出版会,2006iv353 pp.

丸川知雄

 

              近代市場経済において経済成長を推進するエンジンは企業である。その燃料である資金は,資本主義の初期においては経営者自身が蓄積した個人財産でまかなわれた。だが,資本主義の発達とともに,企業は経営者の個人財産や企業の内部蓄積だけでなく,他の株主の出資金や銀行が集めた預金などを預かって事業活動に投資するようになる。さらに,先進資本主義に追いつこうとした後発国は,課税を通じて国家に集めた資金を企業に与えて事業活動に投資させた。こうして現代の企業は経済体制の別を問わず,いずれも本源的な資金の出し手と,その資金を投資する経営者とが別の人格であり,両者の利害が必ずしも一致しないという問題(いわゆる委託人=代理人関係)に直面することになった。

              計画経済とは,本源的な資金の出し手をすべて国家に集中して,企業に配分する仕組みだったが,委託人である国家による資金配分が著しく失敗した上に,代理人も委託人の意図に忠実に経営を行ったわけではない。そこで個々人が分権的に資金の投資先を決める仕組み(市場経済)への転換が進められてきたが,それでも委託人=代理人間の矛盾は別の形で存在することになる。

              本書は中国が直面するそうした複雑な問題を,企業(第Ⅰ部「企業制度の改革」)とそこへ資金を仲介する金融機構(第Ⅱ部「金融制度の発展」)とに分けて分析する。相互に密接に関連するテーマではあるが,今井健一氏が執筆した第Ⅰ部と,渡邉真理子氏が執筆した第Ⅱ部とでは分析手法がかなり異なり,本書は実質的には2冊の本を綴じ合わせたもののようである。以下では別々に論評していくことにしよう。

              第Ⅰ部第1章では,まず中国の企業の規模別構成を他国と比較して,小企業の占める比重が低いが,巨大企業の比重も低いこと,国有企業,民間企業,外資系企業が競争的に鼎立する構造に向かっていることを指摘する。

              続く第2章では国有企業改革を扱っているが,特に1993年以降の状況を詳しく報告している。国有大企業の改革は,80年代の自主権賦与から,90年代には会社組織への転換,株式公開へと進んできたが,なお国家が支配株主であるケースがほとんどである。だが,競争を勝ち抜いてきたような国有企業では,資本は国家が支配していても,事実上の経営者支配になっていることが多い。委託人を重視する立場からいえば忌むべき「インサイダー・コントロール」になっているが,著者はむしろ政府の余計な関与がなく,有能な経営者に権限が集中している状態だとして,その意義を認めている。

              非国有企業を扱う第3章では,農村地域コミュニティから誕生した郷鎮企業が民営化されて所有・経営一致型の企業に転換したこと,民営企業でも経営者が所有者である企業が多いことが指摘される。ただ,そうした企業には経営者へのチェックが働かない,後継者が見つかりにくい,組織能力の蓄積が困難,といった問題がありうる。

              4章は国有企業の民営化を扱う。国有中小企業は経営者と従業員によって買い取られたのち,経営者個人への所有の集中が見られること,国有大企業は,国有株を市場に放出する計画が挫折したのち,民営企業や経営者への国有株売却が段階的に行われていることを報告している。

              以上のように,第Ⅰ部は中国企業の所有と経営をめぐる1990年代以降の状況を国有大企業から郷鎮企業・民営企業に至るまできわめて目配りよく整理している。驚くほど広範な研究蓄積に言及するばかりでなく,著者自身による国有企業改革や中小企業民営化の調査結果なども加えつつ的確に事態の流れを把握している。他方,目配りの良すぎるところが第Ⅰ部の欠点でもある。中国企業のいくつかの特徴,たとえば国有企業での事実上の経営者支配,あるいは民営企業での所有と経営の一致といった状態に対する著者の評価は弁証法的,あるいは両論併記的で,事態の肯定的側面と否定的側面の両方を指摘している。だが,どれも功罪が半々だとしても,どの状態がより望ましい,あるいはより中国社会に適合的なのか,著者の企業観をもっと積極的に打ち出してもよかったのではないか。

              著者はどちらかといえば(国有企業の場合であれ,民営企業の場合であれ)経営者支配が望ましいと考えているようにも感じられるが,だとすれば「少数株主利益の収奪」(p. 80)という議論にはつき合わず,もっと旗幟鮮明に経営者支配の必要性を議論してもよかったのではないか。

              最後のまとめでも,「開発の初期の過程で急速な工業化という目的を達成するためには,企業の設立と経営に対する国家の直接の関与が必要とされた」(p. 152)と書いた次のページで,「産業発展の比較的早い段階では,所有・経営が基本的に一致した古典的企業は明らかに最も『自然な』企業形態である」(p. 153)と書いており,この二つの見解をどのように整合的に理解するのか,もう一行説明が欲しいところである。

              一方,第Ⅱ部は,金融制度の確立プロセスに関する事実経過を押さえつつ,金融理論やマクロ経済理論を援用した独自の分析による大胆な主張が行われている。それだけに,かなり危うい議論も散見される。

              5章では,市場経済における金融の役割から説き起こし,中国では政府財政が集権的に資金を配分する制度から,金融機構を通じた分権的配分に変わったことを指摘する。続く小節のタイトルでは「高い財政支出比率」(p. 161)と謳っているが,中身を読むと「高い」は「低い」のミスプリのようである。また,「計画経済時代は,貯蓄超過主体と投資超過主体はともに政府であった」(p. 168)という表現もわかりにくい。本書に提供されている図では投資超過主体は「企業部門」と表記されており,本文と整合していない。どうやら,「計画経済時代の企業部門は国有企業とほぼ等しく,後者は政府とほぼ等しい,ゆえに政府=企業」という三段論法が上記の文章に凝縮されているようだが,そうした説明は何もなされていない。仮に上記の三段論法がおおむね正しいと仮定しても,政府・党・企業という膨大な官僚機構のなかで資金を受け渡すなかで,当然委託人から代理人に資金を預ける関係が生じるわけであり,政府と企業を等号で結べるような関係ではなかったはずである。

              続いて,中国各省の貯蓄比率と投資比率を1950年代から2000年頃まで追い,改革以降,各省の投資比率が地元の貯蓄比率に影響されるようになっていることから,「市場による資金循環の調整メカニズムが,行政によるそれを代替するには十分に機能していなかったと推測」(p. 173)している。だが,投資機会の多い沿海部の貯蓄が吸い上げられて,投資機会が存在しない内陸部に投下されるという非効率な資金配分が行われなくなり,沿海部の貯蓄が地域内での投資機会に向かうようになっただけでも資金配分の効率はかなり改善されたと見るべきであろう。さらに,財政請負制などで地方政府の投資志向が高まった1980年代後半と,地方間での投資が多くなった1990年代後半以降とを「改革後期」と一括して分析するのもかなり違和感がある。時期区分をしっかり行えば,最初は地域内で投資されることが多かった資金が,再び地域を跨いで流動するようになったことを検証できたかもしれない。

              6章では,中国企業の企業金融に見られる奇妙な現象として,自己資本がない企業の存在,三角債問題,過剰投資,ソフトな予算制約を挙げ,著者自身の調査結果をも示しながら,これらの問題が改革の不備によって引き起こされたことを分析している。自己資金がない企業ができたのは,改革の過程で,企業を負債によって規律づけることを過度に強調した時期があったためである。三角債の頻発は企業の自己資金不足に由来する。また,国有企業が株式会社に改組されても,政府が支配株主である場合には,支配株主が少数株主の権利を侵害し,過剰投資問題を引き起こしている。支配株主である政府は企業が破綻した時の処理でも主導的な役割を果たす。それが必ずしも非効率な結果をもたらしているわけではないが,一般の市場経済では債権者が破綻処理をするのに対して,中国では大株主たる政府が行っているのは企業統治制度が未整備であることを示している。

              本章の分析に見る限り,改革期の中国の企業制度は「破れかぶれ」と言ってもよく,このなかからどうしてまともな中国企業が輩出してきたのかが逆に不思議に思えてくる。体制変革のプロセスを分析するには,成熟した市場経済の段階から見れば問題の多い制度も,改革の一段階では積極的な側面を持っているという視点が必要である。

              7章では,中国の金融機関の展開プロセスを追い,かつては銀行が利益をあげられない「金融抑圧」の状態であったのが,銀行に利益があがり,かつ銀行が長期的視野から融資するよう誘導するために政府が金利を制限する「金融抑制」の状態に向かっているとする。銀行に押しつけられてきた不良債権を切り離すとともに,金融業を新規参入(たとえば農村インフォーマル金融のフォーマル化など)に対して開放することが,銀行が企業として成立する「金融抑制」への道である,とする。

              8章は,金融制度の不完全さが改革以降のマクロ経済に様々な影響を与えたことを分析している。従来中国のインフレに関しては実物経済における需給変動や,政策の影響などから説明されることが多かったが,著者は「金融制度主因論」とも言うべき新鮮な観点から説明を試みている。たとえば1988年のインフレは,銀行に対する貸付枠が預金量に応じて追加されるという制度の導入が原因だという。199394年のインフレは,金融調節手段が不十分だったところに外為制度の改革が行われて外国資金が大量に流入したことが原因とされる。

              ただ,この章には,評者には理解しづらい分析がいくつかあった。まず,隠れた国際資本移動に関する分析がある。中国の国際収支表での「誤差脱漏」はアジア経済危機があった1990年代後半には赤字,最近では黒字になっている。前者は人民元切り下げ期待による資本逃避,後者は人民元切り上げ期待に基づく資本の流入を示しているのではないかと言われてきた。このように「誤差脱漏」には公式に把握されていない資本移動が現れている,というのが従来の解釈であったと思う。だが,著者は「誤差脱漏」の数字には飽きたらず,別の「把握されない資本移動」の推計値を示す。ところが,その動きは誤差脱漏とは逆に,1990年代には黒字(資本流入),2002年以降は大幅赤字(資本流出)となっている。「誤差脱漏」とは逆の動きをどう解釈したらよいのか,本書のなかでは説明されていない。

              また,中国が1998年から数年にわたって経験した「高成長下の物価下落」についての詳細な分析がある。著者はこの現象を,実質貨幣需要が拡大したとき,名目貨幣供給量が増えなければ,替わって物価が下落せざるをえない,という難解な論理で説明しようとする。著者自身もこの論理には自信が持てないようで,本文のなかで6回も同じ論理を繰り返し述べたうえに,どれも文章の語尾は「・・可能性がある」「・・という仮説」などと自信がない風である。もう少し確証が得られた段階で文章にしても遅くはないのではないか。そもそも,日本が直面した「マイナス成長下の物価下落」に比べ,「高成長下の物価下落」の深刻度は格段に低く,物価下落を食い止める必要があるのかどうかも定かではなく,分析を行う動機が評者にはわからなかった。

              本書は,2002年以来,足かけ5年にわたって刊行された「シリーズ現代中国経済」を完結させるものである。本書がなぜ他の巻より格段に多くの時間を要したのか,通読してみてその理由がわかった気がした。企業と金融の改革がまだ進行中であることに加え,改革後の制度の着地点がよく見えない。なぜなら,委託人=代理人問題を解決する唯一の「正解」というものは存在しないからである。

              それゆえ本書は,すでに評価の定まった過去の改革の歩みをわかりやすく教える「教科書」というよりも,まだ帰趨の定まらない現状に対する我々の興味と関心をかき立てる問題提起の書という性格を持っている。

              委託人・代理人関係に関する制度は,人間どうしの信頼関係や道徳観にも支えられるものであるゆえ,国,地域,時代によって最適な制度は異なる可能性がある。改革後に展望される中国的特色を持った企業制度・金融制度とはどのようなものか,そこに今後の課題があるようだ。

(東京大学社会科学研究所)