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研究

社研セミナー

大正デモクラシーと天皇制―臣民・赤子・直訴を中心に
河棕文 (ハンシン大学日本地域学科/社会科学研究所客員教授)

日時:2009年7月14日 15時-17時
場所:センター会議室(赤門総合研究棟5F)

報告要旨

 この報告では、天皇制が帝国を統合するメカニズムとして、各々の時代状況と照応しながら変貌するダイナミックスを追い掛ける。大正デモクラシー期を対象に、いわゆる「天皇制的支配」の客体として閑却されてきた被支配層の視点を重視し、彼らを主体として据えて、統合メカニズムとしての天皇制の歴史性を捉え直す作業である。

 具体的には以下のような内容で構成される。まず、大正デモクラシーの本格化と連動して天皇制への認識が如何に再編されていったのかを見る。次は、一九二一年より本格化する天皇と皇室の開放に注目しながら、有力財閥の安田善次郎を暗殺した朝日平吾の論理と行動の深層を分析する。これをもって、天皇制より発現する「臣民」と「赤子」という自己認識が、政治的行動を敢行する根拠として浮かび上がる過程を描いてみる。三番目は、普通選挙運動と天皇制との関連性に照準を合わせてみる。普通選挙という政治的変化に伴う「不穏さ」は天皇制との結び付きによって稀釈されており、そういう経過が、大正デモクラシーの相対化・形骸化とともに、一九三〇年代に本格化する総動員体制の構想へとつながる側面を探る。最後に、労働者と資本家が対決する場としての罷業が、天皇への直訴を経て妥結に向かっていった野田争議を通じて、天皇制に媒介される統合の含意について考察する。

 以上を通じて、大正デモクラシーの下では、天皇制と政党政治が衝突・対立する経路が見出され、それに関与する経験も積み重ねられたことを論証してみたい。その糸口は「臣民」・「赤子」と「国民」との隙間である。その結果、一九三〇年代における「昭和維新」の源として頻繁に取り上げられた天皇と国体は、このように構築された天皇─赤子関係の再吟味と強化に支えられたと考えられる。


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