ピンチを転機に変える―釜石における被災企業の危機対応―

2017年6月20日

中村 尚史

 2016年4月16日、私は、テレビに映し出された熊本城の崩れゆく姿を目の当たりにして愕然とした。つい三週間前、数年ぶりに家族連れで帰省し、子供たちにその雄姿を見せたばかりである。慌てて飛行機を手配し、4月24日、再開したばかりの熊本空港に降り立った。すぐに実家や親戚宅に向かったが、途次、被害が目立たない地区と倒壊した家屋が集中する地区が明確に分かれているのが気になった。道一本を隔ててガラリと風景が変わる。それは5年前、東日本大震災の津波被災地・釜石で見たのと同じ光景であった。「復興への長い道のりがはじまる。」直感的にそう思った。

 私が所属する東京大学社会科学研究所は、日本における近代製鉄発祥の地として名高い岩手県釜石市で、2006年から地域再生における希望の位置と役割を考えるための総合地域調査(=希望学釜石調査)を行ってきた。ところが、その成果がまとまって程なく東日本大震災が発生し、三陸沿岸の釜石市は津波による甚大な被害を受けた。

 東日本大震災から数ヶ月が経った頃、私たちは知り合いの釜石市役所職員から、「震災直後のことがどうしても思い出せない」という話を聞いた。人は、極度の多忙やショックを受けた際、数日前の出来事さえ遠い昔のことのように感じることがある。そんな時、記憶は断片的になり、前後関係の錯誤が生じる。一方、震災直後の混乱の中で、当事者には記録のためのメモを作成する余裕はなかった。このままでは震災対応の記録が残らないのではないか。そのような危惧を抱いた私たちは、2011年9月、人々の震災後の行動をオーラル・ヒストリーの手法で聞き取り、記録にとどめる活動をはじめた。

 足かけ3年にわたるその活動は、時を経るにしたがい、震災直後の危機対応の記録から、震災復興のあゆみの記録へと変容していった。そして1000頁を超える膨大な記録が出来上がった。そのエッセンスをまとめたものが、東大社研・中村尚史・玄田有史編『<持ち場>の希望学』(東京大学出版会、2014年)である。ここではその中から、津波で事業所をすべて破壊された一人の経営者が、「ピンチは転機」という発想の転換によってこの危機を乗り切り、事業を再構築していく過程を紹介し、被災企業再建への道を探ってみたい。

 小野食品(代表取締役・小野昭男、資本金5000万円、従業員数108人)は、岩手県釜石市で水産加工業を営む地域企業である。震災直前の段階で、業務用の水産加工食品の製造販売を中心に年間売上高が14億円を超え、2011年2月には3億円をかけて大槌町に新事業所を開設するなど、事業は拡大傾向にあった。ところが2011年3月11日の東日本大震災で、大津波に直撃されて釜石本社工場が半壊、開業したばかりの大槌事業所が全壊するという甚大な被害をうけた。被害総額は総資産(8億4000万円)の過半に達する4億6000万円であり、従業員にも2名の死者が出た。震災直後、社長の小野氏はあまりの被害の大きさに言葉を失った。しかし幸い本社工場への津波は、他地域ほど壊滅的なものではなかった。そのため、本社社屋、第二工場は改修すれば復元できる可能性がある。気を取り直した小野氏は6月14日を工場再稼働予定日とし、カレンダーに大きな赤丸をつけた。

被災直後の大槌事業所

(出典)三陸おのやブログ http://blog.shop-onoya.com/?eid=1104503

 この時点で、小野食品が直面していた主な課題は、①瓦礫・汚泥の撤去、②設備再建の手配と資金調達、③従業員の一時解雇と再雇用、④原料と販路の確保の4つであった。このうち①について小野氏は行政の支援を待たず、自らの責任で業者を雇い、いち早く瓦礫撤去を行った。その結果、他の事業者に先駆けて②に取りかかることが出来た。同業他社が呆然自失の状態で身動きが出来なかった時期に設備再建に着手したため、資材や設備業者の調達が容易になり、ほぼ予定通りの事業再開が可能になった。ただ失業保険の給付期間延長などの影響をうけて、③の人員確保が難航し、事業再開の制約要因となった。さらに3ヶ月とはいえ、完全に事業がストップしたため、産業給食など業務用食材の得意先が離れ、④の販路確保が難しくなった。

 この危機的状況に直面した小野氏は、通信販売によって消費者とダイレクトにつながる直販事業(三陸おのや)に活路を見いだした。直販に必要な物流を外部委託し、効率化をはかるとともに、全国紙への一面広告などを行うなど宣伝には十分な費用をかけた。また地域内外の人的ネットワークの支援を受けながら生産ラインの効率化や、シビアな消費者の要求に対応するため製品やサービスの質的向上を達成し、それに応じた付加価値を得ることに成功した。

 その結果、震災以前に売上の11%であった直販事業が2012年度には50%を超えた。総売上高も2012年度(13億円)には震災以前の水準に近づき、2014年度以降は20億円前後へと大きく飛躍することになった。売上高が倍増したにもかかわらず、従業員数は100名前後と震災前と変わっておらず、生産量もそれほど増えていない。高付加価値商品の開発と直販による販売単価上昇によって、高い利益率が実現したのである。

 震災を契機とした小野食品の飛躍の要因を探ると、(1)いち早い自力再建、(2)ピンチを転機と捉える発想、(3)地域内外のネットワークという三つの教訓が導き出せる。(1)は、漠然と公的支援を待っている時間を節約し、人より一歩先に事業を再建することを可能にした。

 また(2)としては、震災によって被ったダメージ(販路喪失や物流崩壊)を逆手にとって、消費者ダイレクトを軸に据えた新たなビジネスモデルを構築した点が重要である。ピンチを転機と捉える発想こそ、小野氏の企業家としての本領である。

 (3)は、震災後における事業再生の過程で設備再建、販路開拓や商品開発などで大きな威力を発揮するとともに、現在も継続的に小野食品の発展を支えている。私は震災以前から小野氏の行動を観察し続けているが、彼は積極的に異業種の人々と交流し、彼らとの「ゆるやかなつながり」をとても大切にしている。ゆるやかなつながり(weak ties)とは、頻繁に会うわけではないが、必要なときには互いに手をさしのべる関係を指す。そして、ゆるやかなつながりによって構成されるネットワークが、震災後から1年が経ち、全国の人々の「震災の記憶」が薄れはじめる頃から俄然その威力を発揮し、ピンチを転機に変える原動力になった。

再建された大槌事業所

(出典)三陸おのやブログ http://blog.shop-onoya.com/?eid=1104503

 2016年3月、小野食品は念願の大槌事業所再建にこぎつけた。震災から5年、同社は設備的にほぼ被災直前の状態に回復した。注目すべき点は、その総工費12億6000万円のうち約10億円について、大槌町の水産業共同利用施設復興整備事業補助金を活用している点である。前述したように小野食品は、初動の段階では公的支援を待たず、リスクをとって事業再建に乗り出した。しかしその後、震災復興事業の枠組みが固まってきた段階では、それをうまく活用して事業を軌道に乗せていった。震災復興を成功させるには、震災後のフェーズの変化にあわせた、柔軟な危機対応が必要だといえよう。

 東日本大震災の東北被災地は、震災後6年たってようやく復興の形が見えてきた。震災復興にはとにかく時間がかかるという点を、私たちは肝に銘じておく必要がある。その一方で、人々の生活再建や企業の事業再構築は一瞬の遅れも許されない、喫緊の課題である。そのバランスをどうとるか。小野食品の事例は、この極めて難しい問題を考えるヒントを、私たちに与えてくれる。