危機というスイッチ:市民活動・住民活動

2016年7月26日
大堀 研

 社会運動は危機的な状況に対する人びとの不安や不満から発生するものととらえることができる。ある社会運動の教科書には次のように書かれている。「社会運動をはじめる人は、当然何らかの状況に不満をもっているし、それを変えるために運動という手段に訴える」1。とはいえこうした議論は社会運動論のなかでも古典的なものとされ、修正が加えられている。引用した文章のすぐ後は「しかし、不満がすぐに(社会運動に...引用者注)結びつくと考えるのは、ちょっと単純過ぎないか」と続いている。人びとが同じように不安や不満を抱いているにも関わらず、地域や時期によって運動が盛んだったり低調だったりする場合があるからである。ここから、政治的な情勢によって運動の盛衰を説明する「政治的機会構造論」など、いくつかの議論が生まれている。

 社会運動を説明するには考えるべきことが多々あるとはいえ、危機的な状況に対する人びとの不安や不満が社会運動の引き金になるということ自体は、それほどおかしなことではないだろう。2012年夏には国会前で脱原発デモが連日発生、多い日では10〜20万人が参加したといわれる。このデモは、東日本大震災による福島第一原発事故という大きな危機的状況や、それにも関わらず2012年になり原発の稼働が再開される事態となったことへの、人びとの不安や不満が形になったものといえる。また2015年には、SEALDsなどの呼びかけによりやはり国会前で大規模な反安保法制デモが発生した。このデモもまた、安全保障体制の変化や政権による憲法の扱いを危機的な状況とみなした人びとの集まりであったと考えられる。

 ところで、2012年や2015年に起こったような大規模な社会運動は、日本では1960年代を最後にしばらく発生していなかった。戦後最大の社会運動とされる1960年の反安保闘争では、学生自治会、労働組合、一般市民など広範な層が参加しており、もっとも盛り上がった6月4日は、全国のデモなどへの参加者数は560万人といわれている。1968年には世界各国で社会運動が発生したなかで、日本でも全共闘運動が発生した。それより前に開始されていたベ平連(ベトナムに平和を!市民連合 2)も盛り上がりをみせた。だが全共闘は大学生中心、ベ平連は大学生や文化人などが中心と参加層は60年安保より狭く、参加者数も少なかった。さらにその後の連合赤軍事件などを経て、日本では社会運動に対する否定的なイメージが強くなっていった3

 1960年代後半から70年代には、公害や開発問題などから各地で住民運動が多発した。成田空港建設に反対して地元農民が開始した三里塚闘争は、新左翼団体も介入し、70年代には激しい闘争が繰り広げられた。だが70年代後半になると、次第に住民運動も少なくなる。80年代に入ると、住民運動「冬の時代」などという表現もみられるようになった。

 一方で、70年代〜80年代にかけては趣味の団体やボランティア団体などが増加した。こうした団体による活動は市民活動、あるいは住民活動などと表現される。1995年の阪神・淡路大震災では多くのボランティアが救援活動に参加したことから「ボランティア元年」といわれ、1998年の特定非営利活動促進法(NPO法)の成立につながった。NPO法人はその後増加を続け、2016年3月末時点では5万団体を越えている。

 ところで、社会運動や住民運動と市民活動・住民活動は同じようなものと言えるのか。この点は決定的な答えがあるわけではない。市民活動・住民活動をとらえるにはこれまでの社会運動論(の一部)を変えていくことが必要とする慎重な研究者もいるし、市民活動を運動とほぼ同等とみなす研究者もいる。

 どちらをとるにせよ、市民活動・住民活動も危機への対応として現れてくる(少なくともその場合がある)という点で、社会運動と共通している。東日本大震災で特に被害の大きかった岩手県、宮城県、福島県の2011年2月末から2016年3月末にかけてのNPO法人数増加割合は、東北の他県や全国に比べ高い。原発事故のあった福島県では55%の増加と、東京都の増加割合をもはるかに上まわっている(図表1)。震災という危機的な状況に応じて市民活動・住民活動が活発化していることがわかる。

(図表1)東北6県のNPO法人認証数の変化

  2011年2月28日 2016年3月31日 増加割合
青森県 298 397 33%
岩手県 348 478 37%
宮城県 584 807 38%
秋田県 263 341 30%
山形県 357 432 21%
福島県 564 875 55%
東京都 6,819 9,501 39%
全国 42,119 50,870 21%

(注)宮城県の2016年3月31日のデータは、県認証386団体+仙台市認証421団体。
(資料)内閣府「内閣府NPOホームページ」4 (2016年5月10日アクセス)

 この傾向は、被害を受けた沿岸部の自治体でよりはっきりとみることができる。社研の2005〜2008年の全所的プロジェクトである「希望学」では、被災地となった岩手県釜石市で調査を行った。震災後も調査を継続している。そこで釜石市を含む岩手県沿岸部の自治体のNPO数の変化をみてみよう。釜石市は、震災前は6(2010年には5)団体だったものが約3倍にまで増えている。被害の大きかった陸前高田市では1(ないしは2)団体から20団体へと大幅に増加した。もともとNPO法人が多かった宮古市でも、14団体から23団体(64%増)と県全体の増加割合(37%、図表1参照)よりも高い割合で増加している(図表2)。さらに、NPO法人以外にも一般社団法人や任意団体の設立も相次いでいる。もともと三陸沿岸はNPO法人やボランティア団体の活動は盛んではなかったといわれるが、それが一変しつつある。

(図表2)岩手県沿岸市町(宮古市以南)のNPO法人数の推移(データに限界あり)

  2008年5月(注1) 2016年5月(注4) 2015年人口(注5)
宮古市 14 23 55,017
山田町 1 3 15,564
大槌町 2 6 11,513
釜石市 6(注2) 18 35,262
大船渡市 8 21 38,024
陸前高田市 1(注3) 20 19,097

(注1)2008年10月のデータは、岩手県によるNPO法人情報を集積したウェブページ5の掲載情報(2008年5月アクセス)のうち、各自治体に事務所のある団体をカウントしたもの。
(注2)釜石市の団体数は、2010年には5団体となった。
(注3)2016年5月のデータ(注4参照)によると、陸前高田市の震災以前に認証された団体として、2002年認証されたもの、2006年認証されたものの2つがあることになっている。しかし注1のデータを再検討すると、震災前は一つしか確認できない。2016年5月のデータには、注1のデータ採取時以降に、他の自治体から団体が移動してきたなどのことがあったと考えられる。
(注4)2016年5月のデータは、注1と同じ岩手県のウェブページのものをカウント(2016年5月13日にアクセス)。2016年4月以降に認証されたものも含む。釜石市のデータには、すでに活動を停止した2団体も含まれており、同様の団体が他市町についても含まれている可能性がある。
(注5)2015年人口は「平成27年岩手県人口移動報告年報」(15年10月1日)のデータ。

 三陸沿岸は震災前から人口減少や経済規模の縮小が続いていたし、震災の被害も大きかった。それだけに災害後の危機意識は相当深かったはずである。釜石市で震災後に一般社団法人「三陸ひとつなぎ自然学校6 」をたちあげた代表の伊藤聡氏の発言をみてみよう。彼は震災以前、海岸沿いの宝来館7 という旅館に勤務していた。宝来館のある集落は津波により壊滅状態となり、宝来館も2階まで浸水したが8 、3階、4階は使用できたため集落の避難所となった。その避難所が3月26日に解散となったときについて次のように語っている。

ここ(宝来館のこと・・・引用者注)に100人をこえる人が集まってきました。で、ここで2週間耐え忍んだんですね。ただ、ここも安全とは言えない。また津波が来るかもしれないので、行政の指導があり、ここを解散したんですよね。解散して、人が一人もいなくなったのが3月26日でした。私は地元に残るということにしていたので、最後を見送ったんですよね。最後を見送って、誰もいない宝来館の姿をみてたら、未来の釜石と重なってしまったんですよね。というのは、宿っていうのは、24時間誰もいないっていうのがあり得ないじゃないですか。スタッフなり、お客さんなりがずっといるんですけど、この日を境に誰もいなくなったんですよね。釜石も、このまま何もしなかったら、瓦礫だけが残って誰も住まなくなるんじゃないかというのにね、ダブってしまったんですよね。で、この日を境にスイッチが入ってしまって、自分がやれることはなんでもやろうということで動き始めたのが、この日でした。(下線部引用者)9

伊藤氏の活動が、「地域が消滅するかもしれない」という深い危機感にもとづくものであることがうかがえる。こうした危機感が活動動機になっていることは、他の活動者にもある程度共通している。

 問題は、こうしてたちあがった多くの市民活動・住民活動が、どのように危機対応として機能しているのかであろう。各団体は、被災者の生活支援や仮設住宅の運営支援、観光への関与を通じた経済復興などに取り組んでいる。これら具体的な活動の一つ一つが、被災という危機に対応するためのものともちろんいえる。だがそれとは別の意味を読みとることもできるかもしれない。

 震災後の5月から、釜石市は復興まちづくりにむけて市民をまじえた懇談会や委員会を開始した。筆者もそのうち幾つかをみせてもらった。そこで感じたのは、被災の後でまちづくりについて議論することは難しいということである。特に5月頃は、まだ仮設住宅にも十分にできあがっておらず(釜石市で全避難所が解消されたのは8月10日)、避難所についての苦情や仮設住宅建設が遅いことへの非難を口にする市民も多かった。まちづくりに向けた話し合いとはならなかったように見受けられた。会議の進め方などでもう少し工夫もできたかもしれないにせよ、震災直後という時期を考えれば、こうした状況となるのは当然のことといえる。

 被災後に議論することが難しいとすれば、災害以前に実施するしかない。災害の多い日本では、近年言われている「事前復興」(災害後の復興事業手法、必要なデータ、住民参加の進め方などを事前に準備・検討をしておくこと10 )が今後各地で欠かすことができない作業となるだろう。その際に、多様な団体が存在することが重要な要素になるのではないか。いろいろな団体が存在することで、人びとは自分の考えに近い団体をみつけ意見を表明したり、団体の中で議論したりすることが可能となるかもしれない。こうした考え方は、研究が増加しているソーシャル・キャピタル論の一種ということになるだろうが11 、事前復興やレジリエンス(災害などからの回復)を規定する要因という観点からもソーシャル・キャピタルが検討されるようになっている12

 釜石市や東北地方はすでに大きな災害を経験してしまったわけだが、それでも再度災害に襲われないとは限らない。災害がなくとも、東日本大震災のショックで「地域消滅」の危険性は高まっている。市民活動・住民活動の充実は、それらの危機への事前対応としての意味ももちうるのではないか。

 ただし釜石市の活動に限っていえば、いまのところそこまでの政治性を帯びているわけではない。たとえばある復興施策について反対意見をもつメンバーがいる団体でも、それを練りあげて具体的な活動に落としこむような動きははっきりとはみられない。政治性が高くないからこそ市民活動・住民活動と社会運動とが区別されるともいえるのだが、ともあれそれらが議論の活発化などの機能をはたしうるのか、今後の展開をまたなければならない。

 

1大畑裕嗣・成元哲・道場信親・樋口直人編, 2004, 『社会運動の社会学』有斐閣選書:142頁
2 1965年4月〜66年10月までは「ベトナムに平和を!市民文化団体連合」。
3 小熊英二, 2012, 『社会を変えるには』講談社現代新書(特に第3章を参照。)
4 http://www.npo-homepage.go.jp/about/toukei-info/ninshou-zyuri
5 http://www2.pref.iwate.jp/~hp0301/npo-info/ninsho/ninsyo.htm
6 http://santsuna.com/
7 http://houraikan.jp/
8 https://www.youtube.com/watch?v=trw-wfvt7E8
9 青森県・岩手県・宮城県・福島県主催「東北4県・東日本大震災復興フォーラムin東京」(2016年2月10日)での発表の際のI氏の発言。
10 具体例としては、東京都葛飾区が2009年に策定した「震災復興マニュアル」などを参照のこと。http://www.city.katsushika.lg.jp/kurashi/1000063/1004032/1004800.html
11 ロバート・D・パットナム, 2006,『孤独なボウリング 米国コミュニティの崩壊と再生』柏書房(原著2000年)
12 Aldrich, D. P., 2012, Building Resilience: Social Capital in Post-Disaster Recovery, Chicago: The University of Chicago Press